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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『浜口陽三、ブルーノ・マトン展―ひとつ先の扉』

展覧会『浜口陽三、ブルーノ・マトン展―ひとつ先の扉』を鑑賞しての備忘録
ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションにて、2022年1月15日~5月8日。※当初会期4月3日までを延長。

浜口陽三の銅版画(主にメゾチントとカラーメゾチント)20点(全て1階に展示)とともに、ブルーノ・マトン(Bruno Mathon)の銅版画(アクアチントとエッチング)51点(1階て展示する3点以外は全て地下に展示)を紹介する。ブルーノ・マトンの無題のエッチングのシリーズ26点は、「なぞなぞ・絵と言葉のかくれんぼ」と題されたコーナーに展示され、谷川俊太郎と大岡亜紀の言葉とともに鑑賞するようになっている。

ブルーノ・マトン(Bruno Mathon)の作品は、アクアチントの「空を駆ける犬(Un chien court dans le ciel)」シリーズ7点、アクアチントの「隠された音叉(Le diapason caché)」シリーズ6点、アクアチントの「6つの徳の物語」シリーズからの3点、無題のエッチングのシリーズなどが展示されている。
「隠された音叉(Le diapason caché)」シリーズの1点《ある1つの扉(Une porte)》には、画面中央に閉ざされたドアが描かれている。その左手前には椅子が横倒しになっている。門番がいない代わりにドアが閉じてあり、倒れた椅子がドアに入ろうとして入れなかった男の姿を表わすものとして、フランツ・カフカの「掟の門」と同じテーマを扱った作品と解釈できなくもない。

 (略)スラヴォイ・ジジェクは、ラカンの読み方を教えるテクストの中で、ドストエフスキーのこの短篇〔引用者註:「ボボーク」。アルコール中毒者と思しきイワン・イワーヌイッチが、墓地で死者たちの会話を聞く。彼らがあらいざらい本当のことを告白しようと取り決めたタイミングでイワンがくしゃみをすると、死者たちの声は一切聞こえなくなってしまった。死者たちは生きている人間には分からない秘密を隠そうとしているに違いないと考え、イワンは墓地を後にする。〕をとりあげ、これを、カフカの『審判』に出てくる「法の門」の寓話と類比的に解釈するべきだという興味深いことを提案している。
 「法の門」では、田舎から来た男は、開け放された門の前にまで到着しているのだが、いつまでも門の中に入れてもらえず、ついに臨終のときを迎えるのだが、意識を失う直前に、門番から、門はただその男ひとりのためにのみあったということを告げられる。法の門の向こう側には、法の秘密があるのだろう。その秘密が何であるかは、最初から暗示されている。門の向こうには何もなく、法は内容的には空虚だということ、これが秘密である。では、法の効力は消滅しているのかと言えば、そうではない。逆である。田舎から来た男が、律儀に「門の中に入るな」という禁止に従い続けたことが示しているように、法は内容のない形式のままに、厳格にその効力を発揮し、男を捉え続けた。どうしてなのかということは、法の門が、彼のためだけのものだ、ということから解くことができる。形式だけの空虚な法は、男の欲望を投射しうるスクリーンとなっていたのだ。法を求める男の欲望を、である。
 同じことは、「ボボーク」にも言えるのではないか。この生ける死者たちの秘密とは、きっと「神は存在しない」である。だが、「法は空虚である」という秘密が事実上はあからさまになっているまさにそのとき、法が厳格に支配したのと同じように、「神が存在しないという条件が示されているそのときに、なお神が事実上存在しているのと同じ効果が現れるということがあるのではないか。つまり、法の内容を消去してもなお法が形式として支配しえたように、神を殺したつもりでも、なお神が存在し続けるということがあるのではないか。法の門が、田舎から来た男のためだけにあったとするならば、墓場での死者たちの会話は、イワン・イワーヌイッチのためだけに上演された芝居のようなものだ。観劇しているイワン(=ドストエフスキー)は、きわめて宗教性の強い人物だということを考慮しなくてはならない。法の門に、男の法への欲望が投射されるように、墓場での芝居には、イワンの宗教性が投射されている。
 よく見れば、墓場の死者たちの世界が、何でもありの放埒な社会とはほど遠いことがわかる。彼らは、ほんとうのことを語ることを、生者よりも強く求められている。しかも、そうすることに快楽を覚えるようでなくてはならない。イヤイヤではなく、心底から喜んで告白しなくてはならないのだ。「すべてが許されている」どころではない。
 とすれば、神は、何らかの意味でまだ存在している、と考えるべきだ。法の内容が還元されてしまった後で、法が、形式だけになってますます効果を発揮したのと同じように、である。考えてみれば、墓場の死者たちは、自身の肉体的な死を超えて生きているではないか。だからこそ、彼らは、好きなことを語ることができるのだ。彼らが死後を生きることができるのは、神がそれを可能にしてくれているからだ。彼らの存在は、神の不在の証どころか、最もシンプルな神の存在証明である。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇2 資本主義の父殺し』講談社/2021年/p.53-55)

《ある1つの扉》において、横倒しになった椅子が誰かの不在を強く印象付ける。すなわち、描かれていない誰かの存在が鑑賞者の意識に上るのである。「隠された音叉」シリーズの他の作品、テーブルを挟んで向かい合う椅子と背後の放たれたドアの向こうに明るい家並みが覗く《扉の後ろ(Derrière la porte)》や、チェス・ボードの並ぶ誰もいない室内を描いた《チェスクラブ(Club d'échecs)》などでも、その場にいない者の存在を強く伝えている。実体と影とが一体化したように表わされた女性が羽根ペンで線を引く様を描く《彼女自身の影(L'ombre d’elle même)》(「空を駆ける犬」シリーズ)からも、本来両立し得ない正反対の事象の短絡に対して、作家が関心を有していることが分かる。
「隠された音叉」シリーズの《熱上昇(La chaleur monte)》は、カーテンが脇に寄せられて中央の扉が開き、その部屋の奥にある十字格子の窓が覗く。画面右手には梯子が立て掛けられている。梯子は上に向かって先細りになり、上昇を表わす。カーテンの襞と、その襞を避けて現れる扉や窓の開口部というイメージは、"La chaleur monte"をマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)の《L.H.O.O.Q.》(≒Elle a chaud au cul.)に結び付け、官能的なイメージを呼び起こす。それが「ひとつ先の扉」を開ける解釈となるだろうか。