可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『草を食む』

展覧会『草を食む』を鑑賞しての備忘録
アキバタマビ21にて、2022年4月10日~5月14日。

木村瞳(月光浴をテーマにした写真と映像など)、酒井みのり(7着の赤いスカートを描いた絵画やチョコレートを模した陶器など)、畠山美樹(サイアノタイプを用いた写真)、湯口萌香(磁器製のイヌやウサギのキャラクターを組み合わせた作品など)の4名の作家が参加する、「選択」をテーマにしたグループ展。

木村瞳の《信じることのレッスン》は、部屋の中での月光浴をテーマにした写真シリーズ。窓辺に佇む自らの姿や月光に浮かび上がる花瓶の花など6点の写真で構成される。東の空に満月が上る様子を撮影した映像《2022年1月、東の空》と組になっている。邪気を追い払い、ネガティヴな感情を洗い流す浄化作用があるという月の光の力に賭ける、という選択がテーマである。同じく木村の《選ぶ/信じる》は目の前に並ぶ45枚のカードから1枚を選ぼうと手を伸ばす度、何かしらの不安が脳裡に浮かんで断念する様を捉えた映像作品。
酒井みのりの《赤いスカート》は、植物柄、ストライプ、チェック、無地など様々なデザインの赤いスカート7着を実寸よりも大きく、横に並べて描き出した作品。赤やクリムゾンの台形あるいは扇形が壁面を埋める様は呪術的な力を感じさせる。とりわけパンデミック下においては一種の疱瘡絵(赤絵)に見える。モティーフとなったスカートは作家の私物で、選好が可視化されている。同じく酒井の《LOOKチョコレート》は、「迷えるしあわせ」を売りにするチョコレート製品を模して、"それぞれに"L"、"O"、"O"、"K"の文字を表わした焦茶色の四角錐台の陶器を3列に並べた作品。3列の提示により量産品であることが強調される一方、型による成形でないために生まれる個々の違いに目を向けろと、鑑賞者に選択を迫るようだ。
畠山美樹の《drive》は巷の景観から"FREE"、"TREND"、"STIMULUS"などのテーマで切り取ったサイアノタイプの写真群。4列6行、24枚組での構成は、看板やディスプレイの視覚情報に「四六」時中、「24」時間曝されている状況を訴えるためであろう。サイアノタイプの青い画面に表現したのは、そのような視覚情報に対して冷静になるとの意味を込めてのことだという。
湯口萌香の《可能性の箱》は、玩具の「おまけ」を売りにした菓子の箱をモティーフにした磁器。「せいかつ」題された商品は、ピンクが基調のデザインで、白い犬を抱いた愛らしい少女が「なにが出るかはおたのしみ」とささやく。全∞種+シークレット(ダフィット・ヒルベルトの無限の客室があるホテルを思わせる!)のおまけがあるという。「現実はイメージ写真と多少異な」るし、「必ず希望のものが出るとは限」らない。「別の人のものが良く見える時があ」る。3つあるうち1つは箱が壊されている。中には何が入っていたのか、あるいは何も入っていなかったのか。「せいかつ」の中の空虚が姿を覗かせている。同じく湯口の《私にもジャッジさせて》は、見上げる姿勢をとる磁器製の白い犬が39匹床に並べられている。選ぶことは、同時に対象から選ばれることでもあるというテーマの作品。

選択をテーマとする展覧会に「草を食む」と冠しているのは、「偶然出会うような探索方法を指す」ブラウジング(browsing)が、もともと「家畜を放牧させ若葉や新芽を自由に食べさせる」の意であることに基づくという。ウェブブラウザでネット上の情報にアクセスする際、閲覧履歴などに基づくターゲティングにより、自分の意思で選択しているのか疑わしいという問題意識が、偶然の出会いから自ら選び取る「草を食む」に籠められているらしい。「草を食む」からは「ビュリダンのロバ」が想起される。

 まず、指摘したいのは、「私は意志を生み出せない」という点である。私が意志を生み出すとすると、意志を生み出そうとする意志をもたねばならない。その意志もまたそれを生み出す意志を必要とする。これが無限後退をもたらすことはすぐにわかる。私は、意志の背後に立って、意志を自分で選ぶことはできない。だとすれば、むしろ、私は意志を「授かる」と言った方がよい。私と意志との間には距離がない。気づいたときには(おそらくは気づく以前から)、特定の意志が私の意志である。私と意志との関係は、「先行する条件を意識することなく、何らかの意志を自分の意志として引き受ける」というものであるほかない。自分の意志の原因を自分で「見る」ことはできず、意志は気づいたときには自分の意志である。ここには、特に「自由」と呼ぶべきものはない。
 要するに、「意志」そのものが自由なのではない。これまでの分析に従うなら、「意志によって引き起こされた」と記述される行為が、障害なく実現される場合、この〈A.特定の方向づけられた動き〉に対する〈B.障害〉の〈C.欠如〉が自由と呼ばれる。意志そのものは、行為を先に動かす力とみなされている。それ自体は自由でも不自由でもない。むしろそれは、自由という語で形容される事態を構成する1つの条件である。何かが何らかの方向に動こうとすることがなければ、それに対する障害もありえないからである。このように、意志は自由の媒介的な一契機を成すのであり、自由の「担い手」ではなく、せいぜいその「構成契機」(component)であるにすぎない。
 (略)
 諸々の可能性の間の選択が問題になっている場面に、「自由」という語をあてはめるのは、一見自然のようでいて、実はすでにこの語の本来の用法を逸脱しているように思われる。
 「私は読書を選ぶのも音楽鑑賞を選ぶのも自由だ」。このとき、「読書を選ぶ」、「音楽鑑賞を選ぶ」というのは2つの可能性である。可能性は定まっていないので、当然のことだがどちらも可能である。単なる可能性だけを考えるなら、(定義からして)あらゆる可能性が可能である。しかし、「読書も音楽鑑賞も自由だ」と言われているとき、ここで言われているのは読書と音楽鑑賞という2つの可能性が両立するということではなく、たとえば「自分はいま仕事が忙しすぎてまったく暇がない」とか「戦場で敵軍と交戦中である」とかいった状態にないので、「読書」という可能性も「音楽鑑賞」という可能性も、その実現を妨げる障害は特に見られない、ということである。このような「障害の欠如」に関しては、2つの選択肢のどちらも条件的に同じだということである。
 もっと細かく見れば、2つの可能性の実現可能性は必ず異なっている。私が普段から読書の方を好んでいるとか、いま疲れているので静かな音楽が聴きたいとか、様々な条件を考慮すると、2つの選択肢の実現可能性が完全に同じということはありえない。「AもできるしBもできる」という選択の可能性がしばしば自由と見なされるが、それは単に、2つの可能性をより正確に区別するだけの知識が欠けているというだけのことであって、そのような知識の欠如を度外視するなら、一定レベルで2つの可能性を「同じ」と見なすことができる、というにすぎない。実際にどちらかを実行する際には、必ず何らかの具体的条件にしたがってそちらへと動かされるから、2つの可能性は「まったく同じ」ではない。
 実際の行動に際して、このような「知識の欠如」によって2つの可能性が表面上区別なく並立しているという場面は、「自由」であるどころか大いに不自由である。ビュリダンのロバを考えてみればよい。まったく同じ距離に置かれた同量の干し草の間で、どちらも選べないロバが餓死してしまうという話である。だが実際は、ライプニッツが言うように、宇宙に完全な対称性はなく、ロバの内臓すら左右対称ではないので、2つの選択肢の条件が完全に同じということはありえない。どちらかに傾き、ロバは死なずに済む。ここでは、どちらかに向かえる方が、むしろ自由である。どちらにも進めず動けないという状態は、通常の行為の滑らかな実現にとっては障害と見なせるので、そのような障害がない状態は、媒介論的な定義によれば自由と見なすことができるのである。(田口茂「媒介された自由 媒介論的現象学の視点から」『現代思想』第49巻第9号/2021年8月/p.47-48)

 ネットで情報を得る場合、ターゲティング広告の技術などによって優先的にある情報を見せられている状況は、別の選択肢の「知識の欠如」をもたらし得るし、それは別の選択肢を選ぶ際の障害となり得る。もっとも、仮に優先順位を付けずに多数の選択肢を一覧できることが可能であるとした(《選ぶ/信じる》に映し出されるような場面を想定した)場合、それは「〈A.特定の方向づけられた動き〉に対する〈B.障害〉の〈C.欠如〉」として「自由」であることになる。ただその場面で自由を感じることは難しくなる。

 一般に、自分の人生の決定的なポイントで、Aをすべきか、Bをすべきか真剣に悩んだことのある人には、その状態が「自由」の典型的経験ではないということは明らかだろう。それはむしろ「自由」とはほど遠い状態である。Aが正解かBが正解か、どんなに考えてもまったくわからず、それでもどちらかを選ばねばならず、途方に暮れた状態である。そこでは「自由」よりも、押しつぶされそうな重圧を感じるだろう。
 とすると、われわれが「自由」(あるいは「自由自在さ」)を感じるのは、自分が何をすべきか、その理由がはっきりわかっていて、何の疑いもなく進むべき道を進んでいくようなときではないか。(田口茂「媒介された自由 媒介論的現象学の視点から」『現代思想』第49巻第9号/2021年8月/p.49)

 ネット上の情報は、利用者にとっては、恰もヒルベルトのホテルの無限個ある客室から1室を選ぶような感覚を生む。何を選ぶとしても「本当に望んでいたものや探していたものが見え辛くなっているのでは」という感覚から逃れられない。否、「本当に望んでいたものや探していたもの」が他にあるという感覚はオフラインでも存在したのであるが、オンラインではより多くのカードが視野に入ってしまうだけだ。「全∞種+シークレット」の「全∞種」にアクセスしやすくなった分、「+シークレット」の亡霊によりしつこく苛まれるのだ。