可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』

映画『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』を鑑賞しての備忘録
2020年製作のアイルランド・カナダ合作映画。
101分。
監督・脚本は、フィリップ・ファラルドー(Philippe Falardeau)。
原作は、ジョアンナ・ラコフ(Joanna Rakoff)の回顧録サリンジャーと過ごした日々(My Salinger Year)』。
撮影は、サラ・ミシャラ(Sara Mishara)。
美術は、エリース・ドゥ・ブロワ(Elise de Blois)。
衣装は、パトリシア・マクニール(Patricia McNeil)。
編集は、メアリー・フィンレイ(Mary Finlay)。
音楽は、マーティン・レオン(Martin Léon)。
原題は、"My Salinger Year"。

 

私はニューヨークの北郊の静かな町で育ちました。特別な時には、父が私をマンハッタンに連れて行ってくれて、ウォルドルフ=アストリアかプラザ・ホテルでデザートを食べさせてもらったものです。それは熱心に観察しましたよ、周囲の人々を。興味深い生活を送っているんだろうなって。私も彼らの仲間入りをしたかった。小説を書いたり、5カ国語を話したり、旅行したりしたかった。平凡な人生は送りたくなかった。非凡な人生に憧れていたんです。去年、ニューヨークに親友を訪ねたとき、あの頃の記憶が一気に蘇りました。数日滞在した後、すぐにボーイフレンドの待つバークリーに戻ることになっていました。しかし、そんな計画は音を立てて崩れてしまったのです。
1995年。ニューヨーク。ジョアンナ(Margaret Qualley)が電話ボックスでカール(Hamza Haq)と話している。しばらくニューヨークに残ろうと思って。しばらく? しばらくってどれくらい? 大学はどうするの? どうでもいいの。もう他人の作品の分析なんてしたくない。自分の作品を書きたいの。ニューヨークで? そう、ニューヨークで。
文名を馳せたい作家がしたことじゃないかって? 安アパートに住んで、カフェで執筆するみたいな? そう、分かってるわ、でもそれが私がしたかったことなの。
ジョアンナが滞在している親友ジェニー(Seána Kerslake)のアパート。出勤前のジェニーが身支度を整えながら、ジョアンナに愚痴っている。上司がね、全て電子メールでペーパーレスにするって。ありがとうとか、どういたしましてとか、どうでもいいことでいらいらさせられることになるわ。ランチはいつとるのなんてメールが同僚から送られてくるの。すぐ消えちゃう一過性の流行であって欲しいもんだわ。あなたが喚くの聞けて嬉しいわ。バークリーの連中すごく真面目だからね、ジョギングにサンダル履きだし。私なんて南カリフォルニアに出現する巨大な雲みたいなもんよ。全てが灰燼に帰すという。それが私。カールも同じ気持ちなの? 同じじゃないわね。彼は数年いる間に大学にスターとして扱われてるから。ねえ、ジェニー、ニューヨークにどれくらいいるかはっきり決めてないんだけど。心配しないでこのままくつろいでくれていいわ。何でも食べて。
職業紹介所を訪れたジョアンナは、エージェントの女性(Ellen David)に出版社を斡旋してもらおうとする。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学修士号なら、数は絞られるとしてもアピールできるわ。詩を発表したの? はい、『パリス・レビュー』誌です。学生コンテストで賞を取りました。それは省いて。出版社は作家志望を敬遠するの。あ、でも、それが私のやりたいことなので、ゆくゆくは…。分かったわ。出版社じゃないわね。出版エージェントはどうかしら? いいですね。ニューヨークで一番歴史のあるところよ。タイプライターは使える? 中学生のときにタイピングの授業がありました。当然タイプライターなんて使わないわよね。彼女はあなたにタイプできるかどうか聞くはずよ、そしたらなんて言うの? 「できます」よ。
毎分60語です。ジョアンナは、マーガレット(Sigourney Weaver)の質問に答える。斡旋された出版エージェンシーで、アドヴァイスを受けた通りに。でもタイプライターで打てるの? コンピューターとは全然勝手が違うわよ。分かってます。どんな作品が好み? ローリー、ハメット、ドナルド・ウェストレイク。『感情教育』を読み終えたところで、とても気に入りました。とても「現代的」ね。驚きだわ。だけどこの仕事に携わるつもりなら現存作家を読まないと。フラメルが好きです。私はウェストレイクね。彼の作品は面白いですね。クリスマス休暇後に始めてもらおうかしら。それからジェリーについて話しておくわ。ああ、ジェリー。彼は狂っているとか、耄碌してるとか、人間不信だとか聞いたことがあると思うけれど、すべて嘘よ。彼が問題なのではなくて、彼の住所と電話番号を執拗に尋ねて彼と連絡を取ろうとする人たちが問題なの。あるいは私にさえね。記者に学生、大学の学部長、プロデューサー。口が上手く言葉巧みかもしれないけれど、絶対に彼の居所を教えてはならないわ。分かる? 分かります。いいわね、忘れないで、この仕事を望む人材ならいくらでもいるのよ。残業も覚悟してね。パム(Leni Parker)が鍵をくれるわ。ありがとうございます。この上なく光栄でわくわくしています。光栄とかわくわくとかは必要ないわ。面接の間、ソファに座って雑誌を読んでいた男性(Colm Feore)が、マーガレットはかなりスリリングだけどね、と相の手を入れる。ちなみに私はダニエルだよ。
壁には文豪たちの肖像写真が掲げられていた。ジョアンナがそれらに目をやる。私はまだ出版エージェントがどんな仕事なのか理解していませんでしたが、作家の世界に一歩近付いたような気がしました。神々しい文豪たちに囲まれることになったのです。文豪たちの存在が私の創作の刺激になるのは間違いありません。
採用されて良かったわね、パムがジョアンナに声をかける。これが鍵。なくさないでね。出社は1月8日午前8時きっかりに。
私はバークレーに1度も戻りませんでした。ニューヨークは私の新たな故郷となる運命だったのです。待ち望んだ仕事で家賃を工面しつつ、新たな人生を綴るのです。

 

文学を学ぶジョアンナ(Margaret Qualley)は、親友ジェニー(Seána Kerslake)を訪ねてニューヨークに滞在したのをきっかけに、ニューヨークで作家になるという幼い頃の情熱を再燃させる。ニューヨークで最も歴史のある出版エージェンシーに採用されたジョアンナは、マーガレット(Sigourney Weaver)の秘書としてテープ起こしその他の雑用に従事する。マーガレットは伝説的な作家J.D.サリンジャー(Tim Post)の代理人であり、隠遁生活を送る作家本人が時折かける電話を取り次ぐことになった。ジョアンナを悩ませるのは、次々と送られてくる情熱的なサリンジャー宛の手紙に目を通し、内容別に定型文の返事を送付するとともに、手紙を裁断処分しなければならないことだった。

作家志望のジョアンナは、J.D.サリンジャー代理人を務めるマーガレットの秘書になるが、かつてサリンジャーの作品を読んだことがなかった。ジョアンナはサリンジャー宛に送られてくる熱の籠もった手紙を読むことで(ジョン・レノンを殺害した人物が『ライ麦畑でつかまえて』の読者であったことをきっかけに、犯罪の芽を未然に摘み取るべく読者の手紙に目を通す必要があった)、間接的にサリンジャーに感化されることになる。
サリンジャーは耳を悪くしていて、ジョアンナを「スザンナ」と認識している。だが、ジョアンナはそれを受け容れる。ジョアンナを「スザンナ」と呼ぶのはサリンジャーだけなのだ。同様に、ジョアンナを「ジョー」と呼ぶのは、バークリーに置いてきた恋人のカールだけだ。ニューヨークで知り合い、同棲したドンは祖母が呼ぶように「ブーバ」と呼ぶ。ジョアンナはその呼び方を嫌うが、ドンは決して「ブーバ」と声をかけるのを止めようとしない。そこにドンのジョアンナに対する態度が端的に表れている。2人の関係が破綻するのは時間の問題だ。今やサリンジャーを読破したジョアンナは、『フラニー』の冒頭、フラニーとレーンとの間のどうしようもないズレの存在に、自分とドンとの関係を重ねることになる。
原稿を読んで、それを買うか買わないかを判断する。あるいは、原稿をそれにふさわしい読者層の雑誌に回す。出版エージェントの仕事とは、結局のところ、ファンレターに定型文の返事を送付して裁断処分してしまうのと同じ感覚を要求される仕事であることに、ジョアンナは気が付く。その気づきこそが、作家になるかならないかを分け隔てている。
サリンジャージョアンナに毎日書くことが大切だと伝える。ジョアンナはその助言を実行することになる。