展覧会『多田恋一朗個展「彼岸に咲いてたゼラニウム」』を鑑賞しての備忘録
TAKU SOMETANI GALLERYにて、2022年5月7日~29日。
丸みのある大きな眼が特徴的な女性の顔を画面一杯に描いた「君」シリーズ7点、角材に単色で着彩した「ゾンビ」シリーズ5点を中心に、全16点で構成される多田恋一朗の個展。
「君」シリーズは、正面から見た女性の額から首にかけて、髪、眉、眼、口、首を、赤系統の色で画面一杯に描いている。一見すると平板に見えるが、溢れんばかりの巨大な眼は宝石のような艶やかさがあり、嵌め込まれた眼窩の深みを強く感じさせる。眼の周囲から鞏膜、虹彩、瞳孔へと奥に向かって吸い込まれるような感覚の強さは、歌舞伎の「にらみ」に比せられよう。
会場の中央にはテーブルとそれを挟んだ椅子が置かれ、一方の椅子には、「ゾンビ」シリーズの1点である、キャンヴァスを貼った木枠を台座に、角材をずらして重ねたものに一面を赤で着彩したキャンヴァスを張ったものが立てられている。絵画の支持体である画布から絵具が文字通り自立した作品である。他方の椅子は、鑑賞者が《ゾンビ》と向かい合って座るために用意されていて、テーブルには銀色の表紙の『「ハロー」ハロー』と題されたグラフィック・ノヴェルが載っている。画家が自ら描いた女性に恋する、ピグマリオン・コンプレックスの系譜に連なる作品である。描かれた女性が、作家にとって、実在の女性として立ち現われるならば、作家が、描かれた女性にとって、フィクションとなりうることを示している。キャンヴァスから立ち上がった赤い画布は、「君」シリーズで赤で表わされた女性であり、絵画が実体として現れたのだ。
ところで、会場の入口は、赤いカーテンで覆われている。鑑賞者はカーテンを潜ることで、絵の中に入り込む仕掛けとなっていたのである。カーテンの近くの壁面に設置された、遠浅の海を描いた《海景》は、現実(此岸)と絵画(彼岸)との境界を表わすものだろう。
カーテンの外側、道路に面した壁には、『「ハロー」ハロー』に登場する、描かれた女性「君」とその作家「僕」とを別々に描いて対になった作品《君と僕》が飾られている。額装された肖像画は、小さな窓から覗く顔のようであり、ギャラリーの網入りガラス越しに見ると、教会の告解室の仕切りの中の人物に見えてくる。だがカーテンを開けてギャラリーに入ると、そこには司祭はいない、その代わりに何と《ゾンビ》が存在するのである。《ゾンビ》との対話とは、結局、自己との対話である。
(略)ピューリタンたちの告白、彼らの世俗内化した告白は、どうして罪ばかりを発見し、苦悩を深めるのか。告白は、自分が犯した罪を悔いるためなのだから、罪について語るのは当たり前のことだと思うかもしれないが、先にも述べたカトリックのサクラメントのことをもう1度、思い返すとよい。確かに、カトリックの信者も、司祭に向けて己の罪を語るのだが、彼らはそれによって安心や快楽を得ている。告白によって、罪が減じられ、贖われているからだ。しかし、ピューリタンの場合は違う。日記を付けることを通じて自己反省し、告白したからといって、罪が消えるわけではない。むしろ、告白のための反省によって、罪が再発見され、ときに罪が創造され、増し加えられてさえいるように見えるのだ。この告白は、逆効果――というか逆説的である。どうしてそうなるのか。
その原因は、すでに説明されている。告白が不可能なままに実践されているからだ。告白への執着は、その不可能性の(再)確認を強いる。信者は、神に向けて、神にとって自分が何であるはずか、神には自分がどのように見えているはずなのかを、告白する。だが、告白すればするほど、ほんとうに自分は告白しきれているのか、告白したことは自分の真実ではないかもしれない、という懐疑も深まっていく。むしろ、私は、告白によって、神に対して、自分を偽っているのではないか。告白していることは、ほんとうに神が私に求めていることなのか、神にとっての真実なのか、私は確信をもつことができない。このようにして、告白を通じてこそ、ますます、自らがすべての罪を自覚し、神に対して語りえたかとうことへの疑問が深まっていってしまうのだ。
(略)
論理的な機序を最後まで追いつくしてしまおう。本章の冒頭で参照した、〔引用者補記:17世紀前半にニューイングランドに入植したピューリタンのトマス・〕シェパードの日記では、「見る私」と「見られる私」の二重性が顕著である、と述べた。「見る私」とは、「私」を見ている不可視の――その意味において抽象的な――神を、〈内面〉の一契機として私が固有化したことの帰結である。プロテスタントは、自分を監視している神の視線を前提にし、神の視線に対して自分がどうであるかを反省的に対自化する。このとき、しかし、神は、信者の外に具体的に実在しているわけではない。客観的に見れば、神の視線とは、信者自身が自らへと差し向けている視線にほかならない。結局、「見ている神」は、「(私を)見る私」へと転換される。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇1 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.431-432)
《reflection》において、銀色の絵の具をぬりたくって描かれた顔は、鏡を覗く作家自身であろう(無論、『「ハロー」ハロー』の表紙が銀色であるのも鏡を表わすためである)。鏡の映像(reflection)とはすなわち内省(reflection)である。自己と鏡像=内省との間には常に距離があり、それを無くすことはできない。だが、逆説的に、それゆえに描き続けることが可能となる。