可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 横手太紀個展『even a worm will turn』

展覧会『横手太紀「even a worm will turn」』を鑑賞しての備忘録
parcelにて、2022年5月21日~6月19日。

瓦礫、ビニール袋、自転車カバー、ブルーシートなどを用いた動く彫刻「When the cat's away, the mice will play」シリーズと、レジ袋や埃が舞う姿を捉えた映像作品とで構成される、横手太紀の個展。

展示室の一角に散乱する鉄筋コンクリートの瓦礫の中、数箇所で瓦礫片が塔のように積み上げられ、その上部で瓦礫片が浮遊して回転している。震災など厄災からの復興を暗示するようでも、賽の河原の石積み、あるいは「聚沙為仏塔」(戯れに砂で仏塔を作るといった小さな善行でも成仏の因縁が結ばれる)を連想させるようでもある。だが、人間の活動に密接な建築物が残骸とされて提示され、その残骸の一部が人の手によることなく勝手に動いている作品は、「鬼の居ぬ間に洗濯」に相当する"When the cat's away, the mice will play"というタイトルと相俟って、人類の消滅後の状況を描いているように思われてならない。

 だいぶ前に私につきつけられたシナリオと同じく、〔引用者補記:サミュエル・〕シェフラーのシナリオでも、地球最後の日は、「もしそうなったら」という仮定の話だが、その日までの時間は把握しやすい。一方、本書で見てきた地球最後の日は、仮定ではなく現実だが、それがくるのは遠い未来だ。時間スケールのこの違いは、われわれの反応に影響を及ぼすだろうか? これについてはシェフラーと〔引用者補記:スーザン・〕ウルフのどちらもが考察しており、映画『アニー・ホール』の素晴らしいシーンが楽しい枠組みを与えている。そのシーンでは、9歳のアルヴィー・シンガーが、数十億年もすれば膨張宇宙はバラバラに吹き飛んですべては破壊されてしまうのだから、宿題をやることに意味はないと言う。アルヴィーの母親はもちろん、彼を診察する精神科医も、そんな心配をするのは馬鹿げていると考える。観客はアルヴィーの心配がおかしくて笑う。シェフラーは、そんな直観的反応を紹介したうえで、差し迫った破壊に直面して存在論的な危機感を抱くのは当然だが、遠い未来に起こる壊滅的な出来事ゆえにそんな危機感を抱くのは馬鹿げているという考えを正当化する根本的な理由を自分は知らないと言う。彼は、遠い未来の出来事に対するその反応が馬鹿げて見えるのは、人間経験の幅を大きく超える時間スケールを把握するのが難しいからにすぎないと言うのだ。ウルフもまた、人類が近々消滅することが生きる意味を失わせるなら、それが遠い未来であっても生きる意味を失わせてしかるべいだと言うのである。実際、彼女の言うとおり、宇宙の時間スケールで見れば、滅亡が数十億年ばかり先延ばしになったところで同じことなのだ。
 私はその意見に賛成だ。力を込めて賛成する。
 (略)
 われわれは儚い存在だ。ほんのつかの間、ここにあるだけの存在なのだ。
 それでも、われわれに与えられたこの一瞬は、稀有にして驚くべきものである。そのことに気づけば、生命の儚さと、自省的な意識の稀少さを、価値と感謝のよりどころにすることができる。人は永続する遺産を求めるけれど、われわれは宇宙の年表をつぶさに見ることで、永続するものなどはないということを知った。しかしその認識のまざまざとした鮮明さは、宇宙にある粒子の一部が他をしのいで繁栄し、自分とその住処である宇宙を探究し、自分たちはつかの間の存在であることを知り、ほんの一瞬炸裂する活動によって、美を生み出し、つながりを打ち立て、謎を解明できるということが、どれほど驚くべきことであるかを教えてくれるのだ。(ブライアン・グリーン〔青木薫〕『時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙』講談社/2021年/p.516-519)

映像作品《so many plastics, so many days》は、路上に落ちていたコンビニエンスストアのレジ袋が自転車に轢かれるところから始まる。レジ袋は風に舞い、ゴミの集積所に飛び、人通りの多い道で人に踏まれる。地下鉄の入口に入り込み、地下鉄に乗降して、再び表に飛び出す。レジ袋はコンビニエンスストアの自動ドアを潜り抜けて店内へと姿を消す。虐げられ、あるいは翻弄され、放浪を余儀なくされるレジ袋に難民の姿を読み取ることもできよう。だが、作家は、モノを人間のメタファーとするより、モノの世界を描くことを通じて人間の姿を浮かび上がらせることに関心があるようだ。レジ袋がコンビニエンスストアに堂々と「帰還」を果たすのは、モノを循環させる役割を担っていることを表わす。レジ袋が生活を支えながら、否、必要不可欠なインフラであるからこそ、恰も「空気」のように不可視の存在となっていることを、映像作品の主役に抜擢することで訴えている。