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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 真鍋由伽子個展『火山で踊る夢』

展覧会『真鍋由伽子「火山で踊る夢」』を鑑賞しての備忘録
数寄和にて、2022年6月1日~12日。

日本画と版画とを制作している、真鍋由伽子の個展。幅1.5メートルの比較的大きな絵画から、蔵書票のような極めて小さな版画まで、40点を展観。

《Circus》(715mm×1000mm)は、ゾウの大きさに寸法を合わせたかのように、平べったい円柱の上に円錐を載せた形状のサスペンション膜構造のサーカステントと、その中にギリギリ収まっているゾウの姿とを赤鉛筆の線で描いた作品。サーカステントを表わすケーブルと柱の線がゾウを身動きできない状態に閉じ込める檻の柵に見える。"α"のように表わされた目は柔和な表情を作っている。だがいつの日にか、ゾウは自由を求めて「檻」を破壊し脱走することになる。展示タイトルに冠された「火山で踊る夢」を踏まえれば、火山のメタファーであることは容易に理解できる。円錐のサーカステントは秀麗な山容を、ゾウはマグマを、それぞれ象徴しているのである。同題の《Circus》(531mm×656mm)は、ベージュを背景に、カラフルなサスペンション膜構造のサーカステントと、その中に赤褐色のシルエットのようにゾウを描いた作品。この作品もまた火山のメタファーと解すべきである。テントの幕がマーブルのように桃色、緑色、青、黄、茶などの色が混ざり合うのは、山肌が天候や季節や時間帯によって目まぐるしくその姿を変える様を表わすのであろう。ゾウはドローイング作品に比べてかなり小さく描かれているが、マグマ溜りとして描かれていると見て良いだろう。それというのも、テントの円錐の頂点に立つ、背景と同じベージュで描かれた旗が、噴煙を表わしていると解されるからだ。火山はいつ噴火してもおかしくないのである。

《遠くの嵐》(201mm×201mm)は、食卓を囲む2人の人物を描いた作品。1人が緑、1人が青の服を身につけている。褐色の壁とそれに近い色の肌と髪の色を持つ2人は暗い室内に溶け込んでいる。壁と青い服とには菱形を連ねた模様がわずかに立体的に配されていて、室内の一体感を強めるのに一役買っているようだ。赤褐色のテーブルの上には、スープを入れたボウルと脚付きグラスがそれぞれに、そして魚を載せた丸皿が1つ置かれている。明るさの抑えられた室内の中で、金色で表わされたスープが輝きを放っている。右手奥に窓があり、瑠璃色の竜巻(?)が空に広がっているのが見える。静謐で平穏な食事に対し、窓(window)越しに見える「遠くの嵐」は、ブラウザで(メディアを介して)見る映像同様、対岸の火事に過ぎないことを示す。あるいは、迫り来る危機を他人事と捉えて目の前の快楽に興じていると揶揄する意図があるのかもしれない。《水》と題された版画の連絡は、底よりも口縁の方が広いガラスコップを線で描き、その中に緑、銀、あるいは青や赤を呈する水を描いている。グラスの中に様々に鮮やかな景色を見出すものであるとともに、コップの中の嵐を描いた作品とも解し得る。あるいは、残された水の量に対する態度――まだ十分にあるのか、もうそれほど残されていないのか――を問うものであるかもしれない。《家の中の出来事》(159mm×227mm)には、金色の線で切妻屋根の家を表わし、恰も家がグラスであるかのように、その中の半分近くを水が満たしている。切妻屋根は山のアナロジーであり、「家の中の出来事」とは、山国(新規造山帯に属する火山の国)の出来事を言い換えることが可能である。《水》におけるテーマが、個人から国家へと移し替えられていると言って良い。同題の大画面作品《家の中の出来事》(1120mm×1456mm)では、金色の線で家を描くのは同様だが、その中には自作の版画が貼り混ぜられている。とりわけ、本展のメインヴィジュアルに採用された、3人が手を取り合い輪になって踊る《踊り》が中央に配されて目を引く。「和を以て貴しとなす」を示すのか、あるいは周囲の状況に目を塞いで踊り呆けているのか、いずれであろうか。

《音楽》(190mm×276mm)には、赤褐色の画面の右側の中央に、全体の8分の1ほどのサイズの四角形があり、影が付けられていて、マッチ箱のようなものに見える。その表面にウクレレを爪弾く緑色のアロハシャツの人物が描かれている。背景はエメラルドグリーンで上部は黒っぽい屋根で覆われている。赤褐色の画面は音を吸収してしまいそうで、画面に比して小さな「パッケージ」に閉じ込められた音楽は、その壁に閉じ込められているように、聞こえてこない。音楽が、イヤフォンで楽しむような、個人のものになっている状況を描いていると言えようか。羊羹を半分に切る《羊羹のカット》という版画作品も出展されているが、音楽もまた、切り分けられて個々に提供されるものになっている。

表題作《火山で踊る夢》は、黄色い寝袋に入って眠る人物と、その上側に小さく表わされた赤い火山との2つの画面を組み合わせた版画。寝袋によって、もうこれ以上切り分けられない(individualの語源、in+dividu)存在として個人が強調されている。作家は、夢を介して切断された個人と火山に象徴される森羅万象を接続しようと試みていると言えまいか。

 (略)火山国である日本で、人間はいかにして火山災害から身を守ればよいか、という観点から見れば、噴石も火山性ガスも火砕流もすっかり悪者扱いされ、遺物化されてしまうのは必然です。しかし〔引用者補記:宮沢〕賢治は、ひとつの土地が数万年にわたって噴火をくりかえしてきた経験、そしてそれに基づく環境と人間とのあいだの集合的な相互浸透と照応の関係を、できるかぎり深く受けとめようとしました。山の、森の、大きな黒い噴石の声を聞きとり、人間がいまだ知覚しえない実在物との関係性をより深く知ろうとしました。「気のいい火山弾」のような童話ともみえるお話は、そうした深いリアリズムにもとづく共同性の倫理を探究した哲学的な物語でもあるのです。ひとつの土地において火山の噴火する野生の状況があり、熔岩や灰のはざまに清水が湧き、そこに少しずつ植物が生えて豊かな森が生まれる。そこに人間が入植し、牛や馬を飼いながら農業や牧畜が営まれ、やがて文明が開かれてゆく。人間はどんどん力を得て自然を支配してゆく、自然のもつ根源的な生命力と森羅万象への共感の能力を忘れてしまう。けれど火山は、つねにふたたび噴火し、人間に忘れていたこの連続性を思い出させようとしてきました。いまも、そしてこれからも永遠に。
 火山弾を牛にみたてるような共感覚は、人間と野生とのあいだに成り立っていた《共感/共苦》の関係にたいする想像力をいまにつなぎとめる、とても大切な叡知です。宮沢賢治は、この言語化しえない叡知を、詩や童話と呼ばれる言語活動をつうじて言葉の世界に可能なかぎり誘おうとした、孤独な詩人=思想家でした。個人の命のはるか先にある、ずっと重要な場所に、集団の連鎖する生命が烈しく燃える緑の炎として灯っていることを深く信じていました。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.32-33)