可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 黒川弘毅個展

展覧会『黒川弘毅展』を鑑賞しての備忘録
コバヤシ画廊にて、2022年6月6日~18日。

「eros」と題された人の形をしたブロンズ彫刻のシリーズ7点を中心とした、黒川弘毅の彫刻展。

金あるいは銀の艶やかな表面を持つ、頭・胴・腕・脚から成る人間の身体を模した彫刻は、右側ないし左側に傾きつつ自立する。いずれも高さが1メートルに満たないのは、ギリシャ神話のエロースがキューピッドと呼ばれる幼児のように表わされたことを踏まえている可能性もあるが、身体のバランスは幼児のものとは異なる。目・鼻・口・耳など顔の部位や手足の指などは表わされず、左右で長さが大きく異なる腕は袖が広い服を纏うように先が広がるなど、デフォルメされている。腕の長さの差異とともに胴や脚に加えられた撚りが動きを感じさせる。デフォルメや撚りは見る角度によって像のイメージに変化をもたらす。像高が低く抑えられているのは上からの視点も容易に得られるためかもしれない。そして、鑑賞者が像の背後に回り込むと、黒くゴツゴツした断面を目にすることになる。作品は、粘土による原型を用いず、砂型を直に掘り込んで制作されていて、砂型に溶けたブロンズを注いだ際の表面がそのまま残されているためだ。輝く滑らかな表側に対し、暗く粗野な裏側を敢て見せることによって、神像が書割に過ぎないことを露呈させている。この書割は、鑑賞者に不安を誘発する仕掛けである。

 そういった日常に埋没する現存在に揺さぶりをかけるのが、たとえば「不安」という気分である。不安というのは、何か具体的なものに対する恐れと違って、別になにが恐いというのではない。何となく不安なのである。しいて言うなら世界=内=存在そのものが不安の対象である。この世界の内で存在しうるかどうかを案じているのである。この不安という気分において、世界は、常日頃なれ親しんだ姿ではなく不気味な相貌をもって迫ってくる。現存在と取り巻く道具の帰趨する連関は崩壊し、意味の連関が途絶した世界はまさに世界として現存在に立ち現れてくる。そして、現存在の全体が、「事実的に実存する世界=内=存在」として現れてくる……。
 『存在と時間』の中の第1編の終わりに近いところで語られる不安をめぐる議論は、この著作の展開全体の中で極めて重要な役割を演じている。ハイデガーによれば、不安の中で、現存在の全体が「事実的に実存する世界=内=存在」として現われ、この世界=内=存在を構成するのが、実存性、事実性、頽落という3つの契機であることが明らかになるという。この3つの契機は、またそれぞれ「自分の存在が気になること」、「すでに世界の内に在ること」、「世界の中で出会われる物のもとに在ること」というようにも言いかえられている。それらは広い意味での「気遣い」を構成するのだが、これも開示性と同じくすでに第2編で展開される時間性をめぐる議論を先取りし、時間制性の諸契機に対応する三肢的な構造をなしている。
 つまり、現存在が世界=内=存在であること、そしてそれが(第2編の時間論を先取りする形で)3つの契機を構成していること、これは不安において見えてきた事柄なのである。不安の分析が『存在と時間』で果たす要としての意味は、そこまであたかもニュートラルで客観的な記述であるかのように展開されてきた現存在分析が、実は、ひとりの人間(現存在)の不安という経験、あえて言うなら「主観的な体験」の中で初めて醸成してくるものであることが語られている点にある。誇張して言えば、現行の『存在と時間』における議論は、不安という一種の「主観的な体験」の中で得られる洞察を掘り下げ、概念化したものだということになる。
 しかし、それは『存在と時間』が不安という主観的な体験の中で現れた幻想や夢想だということではない。円滑な営みに何らかの支障が生じるのを思考の手掛かりとするのはハイデガーでしばしば見られるが、現存在分析も、現存在の常態である日常性に、何らかの異様な亀裂や障壁が生じることによって、初めて誘発される。そしてこの亀裂を入れるひとつの契機が不安にほかならない(後にはそういった気分として予感や驚愕なども挙げられ、特に退屈が重要な役割を演じる)。
 たしかに不安は、一種の「主観的な体験」にすぎない。しかし、日常に亀裂を入れ、それを動揺させる何らかの気分を考察の中に取り込まないかぎり、現存在分析は、それこそ単なる夢想にすぎなくなってしまう。不安をめぐる分析には、ハイデガーの思考に見られる特異な循環構造が端的に現れている。(高田珠樹ハイデガー 存在の歴史』講談社講談社学術文庫〕/2014年/p,222-224)

また、砂型に注湯した結果をそのまま提示するのは、金属の流動性を訴え、ひいては生命が「〈質料=形相〉のあり方において把捉されてしまうことを解体」しようとするものではないか。

〔引用者補記:ドゥルーズ=ガタリは、金属の汎物質的なあり方について〕「冶金術は「物質=流れ」の意識ないし思考であり、金属はこの意識の相関物である。汎金属主義が表明しているように、すべての物質は金属とみなしうるのであり、すべての物質は冶金術の対象となりうる。水や草や木や獣ですら塩や鉱物的元素にみちみている。すべてが金属ではないが、金属はいたるところに存在する」
 「非有機的生命」という概念がここから導かれる。生命体をエラン・ヴィタルのつながりやその流体性のなかでとらえていたベルクソン主義の、徹底した形象と書きなおしがここでなされているといってもよい。物質は金属であり、自然は金属であり、金属であるかぎりの生命性が、職人に仮託されて語られる技術の軸を押さえている。
 ドゥルーズが後期において論じている、珪素として生命(『フーコー』)、結晶イマージュ(『シネマ』)などが、こうした物質のなかにみいだされる金属という発想につながっているのである。
 この世界を自己創発的に形成する根本的なもの、それ自身が生命であるともいえるもの、〈質料=形相〉という区分に関わらす、それをまたぎ越すように、流れ独自の進化を遂げるもの、いかなるかたちにも変形でき、いかなるかたちにおいてももち運びが可能であるもの。金属は、その軽さと重さ、流れと質料感において、まさに生命を宿す物質なのではないか。ここで技術とは、生命としての金属に応じることではないか。そしてそれは、有機的な存在(生命)がどうしても〈質料=形相〉のあり方において把捉されてしまうことを解体し、流動するこの世界=平滑空間がその姿をのぞかせる底の部分と確かに関わっているのではないか。(檜垣立哉ヴィータ・テクニカ 生命と技術の哲学』青土社/2012年/p.345-346)