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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『BankART Under 35 2022 第3期』(足立篤史個展)

展覧会『BankART Under 35 2022 第3期』(足立篤史個展)を鑑賞しての備忘録
BankART KAIKOにて、2022年6月10日~26日。

BankART Under 35」は、2008年にスタートした、35歳以下の作家を個展形式で紹介するシリーズ企画。今年は4期にわたり8名の作家を紹介する。第3期は、「静かなる森」と題し、人の姿を重ねた「うつろう」自然を鮮やかに描き出すナカバヤシアリサの個展と、「REMEMBER(覚えているか)」を掲げ、戦車・戦艦・戦闘機をそれに纏わる新聞記事・雑誌記事で造形する足立篤史の個展とで構成される。以下では、足立篤史の個展を取り上げる。

《1944.12.21》は給糧艦「間宮」の模型を、ケーブルのような細部に至るまで、全て朝日新聞の1941~1944年の紙面をもとに制作したもの。「今こそ食糧増産貯蓄戦に総突撃だ!」とか「お豆腐を近く配給」などの文字が目を引く。このように、戦車・戦艦・戦闘機などを、それに関連した新聞記事・雑誌記事を用いて造形した模型が並ぶ。壁面に展示された小さな戦闘機などの模型では、虫ピンで留められた蝶よろしく昆虫標本のように展示されている。

《OHKA》は、航空特攻兵器「桜花」を翼長約5m、全長約6mの原寸大で再現した作品。表面には「桜花」が開発・実戦投入された昭和19~20年の新聞紙が貼られ、政府の動向や軍隊の戦果、銃後の生活などについての記事を読み、あるいは広告を見ることができる。模型の内部に送風機が仕込まれて巨大な紙風船として提示されているのは、帝国の誇大妄想のアナロジーであるとともに、膨張の末に破裂したその末路を暗示するものである。紙風船の制作に用いられているのは和紙とコンニャク糊であり、戦時中、アメリカ本土無差別爆撃のために放たれた風船爆弾の気球に用いられた「こんにゃく和紙」と同じ素材である。気球は中空構造であり、日本人の心性のモデルとして捉えることもできよう。

 (略)日本神話の論理は統合の論理ではなく、均衡の論理である。それは一見すると、天皇家の正当性の由来を明らかにするためのものであり、権威ある中心としての天皇の存在を主張しているかに見える。しかし、既に明らかにしたように、『古事記』神話において中心を占めるものは、アメノミナカヌシ-ツクヨミ-ホスセリ、で示されるように、地位あるいは場所はあるが実体もはたらきもないものである。それは、権威あるもの、権力をもつものによる統合のモデルではなく、力もはたらきももたらない中心が相対立する力を適当に均衡せしめているモデルを提供するものである。
 中心が空であることは、善悪、正邪の判断を相対化する。統合を行なうためには、統合に必要な原理や力を必要とし、絶対化された中心は、相容れぬものを周辺部に追いやってしまうのである。空を中心とするとき、統合するものを決定すべき、決定的な戦いを避けることができる。それは対立するものの共存を許すモデルである。
 中心が空であることは、一面極めて不安であり、何かを中心におきたくなるのも人間の心理傾向であると言える。そこで、筆者が日本神話の(従って日本人の心の)構造として心に描くものは、中空の球の表面に、互いに適切な関係をもちつつバランスをとって配置されている神々の姿である。ただ、人間がこの中空の球状マンダラをそのまま把握し、意識化することは極めて困難であり、それはしばしば、二次元平面に投影された円として意識される。つまり、それは投影される平面に応じて何らかの中心をもつことになる、。しかし、その中心は絶対的ではなく投影面が変れば(状況が変れば)、中心も変るのである。このようなモデルを考えにくい人は、中心が空であるために、そこへはしばしば何ものかの侵入を許すが、結局は時と共に空に戻り、また他のものの侵入を許す構造であると考えて貰うとよい。
 このようなモデルは日本人の心性にいろいろな点でよくマッチしていると思われる。たとえば、上山春平氏は「思想の日本的特質」という興味深い論文において、日本の思想史を一貫している特色として、「ラジカルな哲学否定」があると述べている。そして、その「哲学否定」とは「思想における徹底した受動性もしくは消極性に他ならなかった。体系的な理論の形で積極的に主張(テーゼ)を押したてて行くことをしない態度」であると述べている。同氏はこのような特徴を「凹型文化」と呼んでいるが、この凹型はすなわち、日本神話の中空性にその型を示していると思われる。わが国が常に外来分化を取り入れ、時にはそれを中心においたかのごとく思わせながら、時がうつるにつれそれは日本化され、中央から離れてゆく。しかもそれは消え去るのではなく、他の多くのものと適切にバランスを取りながら、中心の空性を浮かびあがらせるために存在している。このようなパターンは、まさに神話に示された中空均衡形式そのままであると思われる。
 中心を空として把握することは困難であり、それは一時的にせよ、何らかの中心をもつものとして意識されることを既に指摘した。このことは、日本人特有の中心に対する強いアンビバレンツを生ぜしめることになる。つまり、新しいものをすぐに取り入れる点では中空性を反映しているが、その補償作用として、自分の投影した中心に対する強い執着心をもつ。あらゆる点において、日本人は自分が「中心」と感じしているものには執着し、高い関心を払う。しかし、時が来てその「中心」の内容が変化すると、以前に中央に存在したものに対する関心は消え失せ、新しい「中心」に関心を払うのである。(河合隼雄「『古事記』神話における中空構造」河合隼雄『中空構造日本の深層』中央公論新社〔中公文庫〕/1999年/p.47-49)

有事に対する不安が醸成する空気が風船に流れ込むとき、《OHKA》は再び膨張して実体となりかねない。作家は「生々しい記録直視し、戦争という現実を想像し、学んでいかなければならない」と警鐘を鳴らしている。