可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 坪山小百合個展『呼吸のアウトライン』

展覧会『坪山小百合「呼吸のアウトライン」』を鑑賞しての備忘録
TAKU SOMETANI GALLERYにて、2022年6月10日~26日。

呼吸をテーマとした絵画21点を展観する、坪山小百合の個展。

《Breathing outline》(1300mm×1940mm)には、茶でまとめられた色彩で、左右に向かい合うように並ぶ2人の女性の腰から顎にかけてのシルエットと、そこに培地で培養された細菌のようなイメージが重ねられている。闇の中に浮かび上がる女性の身体には乳房や腕も表わされているが、僅かな明暗は施されているものの極めて平板に表わされている。赤みを帯びた茶色からは踊る埴輪のような素焼きが想起され、単純化された形と相俟って、原始的あるいは根源的な印象を生んでいる。画面の中段から上段にかけて、女性の胸と首を中心に、飛沫のような円や滲み広がる跡が、細菌の増殖した培地のように広がっている。それは酸素と二酸化炭素との肺胞でのやり取りが血液へ/血液からの浸潤として表わされているのかもしれない。また、円と欠けた円との存在は、月の満ち欠けにより時間の経過の表現と捉えられるとともに、女性の身体と相俟って生理(period)を連想させもする。土偶のようには「女性の像で、乳房や下腹部また女性器など、子どもを妊娠し育てる働きと関係する体の部位が、はっきり表現されている特徴」(吉田敦彦「地母神信仰と縄文人」『ユリイカ』第49巻第6号(2017年4月臨時増刊号)p.250)を持つイメージとは言えないが、赤みを帯びた土のような色味や素焼きの埴輪に通じる形象は、地母神=母胎を思わせるに十分である。

 「無意識」として存在する超越的自我、つまりは「如来蔵」としての「心」は万物の母胎であり、創造の働きをもつ。その創造は機械的かつ知性的に行なわれるものではなく、精神的かつ情動的に行なわれるものである。大拙は、『神秘主義』の第V章「輪廻について」で、「如来蔵」としての「心」、「無意識」として存在する超越的自我を起動させるものとして人間的な欲望ではなく、人間的な欲望を超えた超人間的な欲望、生命のもつ活力そのものであるような純粋な欲望、ベルクソンのいう「エラン・ヴィタール」のような盲目的な意志にしてエネルギーである「渇愛」を据える。この「渇愛」こそが「慈悲」の源泉となり、森羅万象あらゆるものに固有の形を与える力の源泉となるのだ。すなわち――。
  究極の実在が1か2か3か、あるいはもっと多数なのかは知らぬが、私には限りなくさまざまな形に変容した、あるいは変容し得る1つの渇愛が、自己表現を行って、われらのこの世界を形成しているように思われる。渇愛は限りなくさまざまな姿・形をとり得るものなので、はてしなく変化に富んだ形をとるのは当然である。それ故、とる姿・形を決めるものが渇愛なのである。このことが、われらの意識に訴えかけていることなので、われらの意識こそ究極の根拠であって、それ以上遡りようがない。
 宇宙自体の自己表現への欲望、自然自体の自己表現への欲望を共有しているからこそ、われわれは猫をはじめとする動物にも、植物にも、自らを見出し、また自らのうちに動物を、植物を、鉱物を見出すことができるのだ。それが「輪廻」の根拠であり、「輪廻」の現実なのだ。「如来像」としての「心」が、創造への欲望に、渇愛に、「慈悲」に満ちる。そこから森羅万象あらゆるものが産出されていく……。(安藤礼二『熊楠 生命と霊性河出書房新社/2020年/p.180-181)

「森羅万象あらゆるものに固有の形を与える力の源泉となる」万物の「母胎」とは「超越的自我」。そして、「超越的自我」を可能にする存在とは「芸術家」である。

 芸術の対象は感性的なものである。そして感性的なものの人為的な組織化がテクネーである。スティグレールは感性的なものが外化されることで有機的なものと社会的なもの両方に開かれると見ている。この外化により、思惟する霊魂はもはや1つの個体的で孤立的な霊魂ではなくなり、むしろ1つの歴史をもつとともに1つの歴史的な存在者として歴史の内にあるものとなる。シモンドンにいわせると個体化の過程に先立って1つの前個体的な実在がある。かかる実在は潜勢力の宝庫であり、それは消尽することがない。つまりもろもろの条件させ適合すれば、それは別の新たな個体化の過程の生起を可能にする。シモンドンにはこの前個体的な実在を自然として考える傾向があるが、すでに見た通りスティグレールは自然という言葉の使用を拒否し、むしろもろもろの技術的な存在者や歴史や心的装置を1つに寄せ集めたものとして前個体的なものを理解している。シェリングにおいては偶然性を必然性に転化して有限者の内に無限者を刻印する芸術家としての技術は自然が所有しているが、スティグレールにおいて個体化に対応するのは自然という形象ではなく芸術家であり、しかも偶然性を必然性に転化することをその作動の課題とするのみならず、開示というかたちで鑑賞者の上昇をも狙う芸術家なのである、芸術家とはその作品を通じて1つの超個体化の過程つまり1つの心理的かつ集団的な個体化を開始させるものをいう。芸術作品が感性的なもののテクネーの成果なら、そしてかかるテクネーが思惟する霊魂を何らかの社会的なものの回路に開くなら、芸術家は個体化の促進者の役割を担う。『象徴の貧困』第2巻でスティグレールは、芸術家とは何かと問う。そしてこう答える。
  芸術家とは心理的かつ集団的な個体化の1つの典型的な形象である。そこでは、わたしというものはわれわれというものの内にしか見あたらず、そしてわれわれというものはこの過程が前提する前個体的な地の緊迫した過飽和な潜勢力から構成されているとともに、それを形成するわたしたちがなす通時性から構成されている。このわたしたち、ないし心理的な個体たちは、かかる前個体的な潜勢力の継承者であるとともにこれに緊縛されており、それらが構成するわれわれというものに各々それぞれの仕方で接続している。
 ここでの芸術家という述語は、哲学者や教育者や工学者など好きなように置き換えてよい。ここでいう芸術家とはあくまで1つの典型的な形象である。かかる芸術家は何らか味わい深い作品を産出するもののことではなく、むしろ芸術作品(あるいは書物やコンピュータ・プログラムなど)のかたちで外化された感性的なものを通じて、わたしとわれわれの間の超個体化を可能にする何らかの回路を想像する能力があり、これに責任を負うことできるもののことをいうのである。芸術作品を通じて再帰性が確立され、何らかの終焉に向けた自己知識を構成するが、その終焉はあくまで神秘的な秘法のごとき1つの目的なき合目的性である。かかる個体化の要となるのがわたしとわれわれの間の緊張であり、もろもろの緊張とその解決により必然かされた運動を通じてこそ1つの準安定性が最終的に獲得されることになる。この準安定性は多数でしかありえない。なぜなら終演が神秘にとどまり受容者ごとに特異であるからである。準安定性は安定してはいるが平衡ではない。むしろそれはかかる終焉が何らかの有用な目的ではなく1つの過程であることを意味している。準安定性とは過渡的な一状態であり、新たな個体化の過程の引き金がひかれたら別の位相に移行することもある。シモンドン的な個体化の概念と技術対象の個別化がスティグレールの思考の内で統一化され、かくして技術対象、この場合は芸術作品が、心理的かつ集団的な個体化に不可欠の一次元となる。(ユク・ホイ〔原島大輔〕『再帰性と偶然性』青土社/2022年/p.269-271)

ところで、フランスの比較文学者エチアンブルによれば、「詩的快感の起源はおそらく生理学的なものであり、より正確に言えば、筋肉および呼吸に関わるものである」という(オクタビオ・パス牛島信明〕『弓と竪琴』岩波書店岩波文庫〕/2011年/p.497)。

 (略)深い、十分な、健やかな呼吸は、健康やスポーツの実践であるばかりでなく、われわれが世界と合体し、宇宙のリズムに合流するための方法でもあるのだ。詩を朗誦することは、われわれの肉体と自然の全体的運動を伴った踊りのようなものである。類推あるいは照応の原理は、ここにおいて決定的な機能を果たす。朗誦は儀式であったし、今でもそうである。不可分に統一された呼吸運動、リズム、イメージ、そして意味であるような行為において、われわれは世界と共に、世界を吸ったり吐いたりするのである。呼吸は、感応の行為であるがゆえに、詩的行為である。エチアンブルが「詩的快感」と呼ぶものは、この感応の中にあるのであって、生理にあるのではない。(オクタビオ・パス牛島信明〕『弓と竪琴』岩波書店岩波文庫〕/2011年/p.499)

翻って、《Breathing outline》において、2人の女性(の身体)が表わされているのは、「わたしというものはわれわれというものの内にしか見あたら」ないからではなかろうか。そして呼吸がモティーフとしているのは「1つの超個体化の過程つまり1つの心理的かつ集団的な個体化を開始させる」ためと考えて間違いない。

 〔引用者補記:宮沢賢治の童話〕「鹿踊りのはじまり」という作品が、とりわけ私のような人間にとって素晴らしいのは、そこに詩と舞踊のはじまり、起源が、じつに見事に描かれているからです。しかもそれが、ほとんど渾然一体のものとして描かれているからです。
 これまで詩人について述べてきたことのすべてが、じつは舞踊家についても言えるわけです。原初の舞踊家もまた、山猫にもなれれば、熊にも、鹿にも、風にも、そしてそれこそ「水の中で星になることだってできる」〔引用者註:岡田隆彦の詩の一節〕そういう存在だったのです。事実、多くの人類学者が、舞踊の起源を動物の仕草に真似ることに求めています。模倣とは、そのものになるということです。そのものになりながらも、そのものではないという、そういう形をとることができたときに、人間は人間になったのだと思います。つまり、詩と舞踊こそが、人間の人間たる所以を示しているのです。
 このように申し上げますと、おそらく多くの方々が、それはシャーマニズムのことではないかと思われるでしょう。その通りです。私は、詩と舞踊はシャーマニズムから生まれた、いや、それは同じことなんだと、いまは、思っています。シャーマニズムというと、まるで未開野蛮の代名詞のように思われるでしょうが、私はいまもう少し広い意味で言っているつもりです。
 こういうことがあります。動物行動学者の山極寿一さんから聞いたのですが、類人猿のゴリラやチンパンジーは、人間と違って、同じことをいっせいにするということができないのだそうです。たとえば、いっせいに歩くとか、いっせいに食べるとか、そういうことができない。ただ人間だけがそういうことができるのだそうです。群れるということと集団で行動することとは違うのだそうです。人間は集団行動ができる。
 たとえば、さきほどの賢治の「鹿踊りのはじまり」の主人公にしても、藪陰に隠れて、鹿の愉快な会話や歌を聞いているうちに嬉しくなってしまって「もうまつたく自分と鹿とのちがひを忘れて、『ホウ、やれ、やれい』と叫びながらすすきのかげから飛び出し」てしまうのです。「鹿踊りのはじまり」の主人公は「自分と鹿とのちがひを忘れ」るわけですが、これは人間にとっては決して奇妙なことではない。むしろ一般的なことだ。たとえば素晴らしい舞踊を見ると、人は自分とダンサーの違いを忘れてしまう。ダンサーの呼吸に支配されてしまうのです。それで、固唾を飲んで見終えたときにはいっせいに溜息をつく。そして拍手する。スポーツの試合にしてもそうです。試合が白熱してくると、誰もが熱狂しますが、それは心がひとつになるということなのです。
 これが人間に特殊な能力なんだということを、私は山極さんから教わったわけですが、集団行動ができるということと、他人に憑依することができる、他のものになることができるということは、じつは同じことなのではないか。私はそう思うのです。一篇の詩が集団の心を揺さぶり、舞い手の一振りが集団の心を1つにする。これこそがじつは人間の社会の起源というか、根本なのではないか。(三浦雅士『考える身体』河出書房新社河出文庫〕/2021年/p.121-123)

《Breathing outline》は、呼吸と舞踊とを描くことで、芸術家の営為そのものを表現した作品と言えよう。