展覧会『小泉茜・TOMOMI「- ダッシュでもマイナスでもない」』を鑑賞しての備忘録
Room_412にて、2022年6月29日~7月3日。
透明度のある皮膜に覆われたモノクロームの絵画12点を展示する小泉茜と、肖像写真の加工をテーマに制作された絵画5点と研究レポート2件を発表するTOMOMIの二人展。
小泉茜の《浮かぶ紙ひこうき》(333mm×455mm)には、黒い画面の上段の中央に白く浮かび上がる紙飛行機と、その細い影が下段中央に描かれている。黒く塗り込められた背景は白い紙飛行機との対照によって一見すると闇であるが、眺めているうちに、もっと明るい空間であるようにも思われる。紙飛行機の影の存在によって、中空から地面ないし床とが区別されるのみで、屋外であるかもしれないし室内であるかもしれない。透過性の高くない皮膜のようなものに覆われた画面には、陶磁器の貫入のような微細な罅が見える。この皮膜と罅とが、作品を明確に捉えることを拒み、恰もいつまでも浮かぶ紙飛行機のように、判断は宙吊りとなる。
2千5百年前にゼノンが提起したと言われる、運動と時間をめぐるパラドクスは、「飛矢は飛ばず」「アキレスは亀に追いつかず」等と、きわめて劇的な仕方で表現されている。任意のどの瞬間をとっても、飛矢は、空間内の特定の1点を占めている――つまりその1点で静止している。とすれば、飛矢はいつ飛ぶのか――飛んでいる瞬間はあるまい。(略)これらのパラドクスは運動や変化がありえないことを証明するきわめて強力な論理であるとされ、哲学者たちを悩ませてきた。われわれは確かに運動を目撃し、変化を経験している。これは錯覚なのか。もし錯覚ではないのだとすれば、パラドクスのどこに誤りがあるのか。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇2 資本主義の父殺し』講談社/2021年/p.258-259)
矢が射手によって的に向けて放たれているなら、「まず射手と的との中間点1に到達しなくてはならず、中間点1に到達するためには、さらに射手と中間点1との間の中間点2に到達しなくてはらならず、そして中間点2に到達するためには、……といつまでも終わりなく繰り返さざるをえないので、矢は的に到達できない、と説明される」(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇2 資本主義の父殺し』講談社/2021年/p.277註1)。《浮かぶ紙ひこうき》の皮膜は紙飛行機との間の繰り返し現れる中間点を象徴するかのようである。
〔引用者補記:「飛矢は飛ばず」の〕パラドクスに対する最も有名な反論は、(公比の絶対値が1未満の)無限級数の和が有限の値に収束するという数学の定理を用いたラッセルの議論だ。しかし、これがパラドクスが提起した問題をいささかも克服してはいないということは、すでに多くの哲学者たちに指摘されてきた。ゼノンのパラドクスは、「無限」なるものが経験的な実在性をもたない、ということを衝くものである。それなのに、無限(に続く数列)をはじめから前提にしてしまえば、パラドクスを解いたことにはならない。そのような無限をつくる操作が経験的にはありえない、ということが問題になっているからである。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇2 資本主義の父殺し』講談社/2021年/p.278註2)
小泉茜の《超えられないフェンス》(190mm×273mm)は黒い画面に浮かび上がる白い格子を描き出した作品であり、その格子は上下左右に広がっていくフェンスの1部を切り取ったものであるかのように断ち切れられた形で表わされている。「無限をつくる操作」が施された作品である。一方、《何もない皿》(SM)は、テーブルらしき台上に置かれた白い皿と、その情報に浮かぶスプーン(?)から皿に落ちる影とが表わされている。白い皿が象徴する無限に対して、スプーンすなわち手を伸ばす様を描いている。「経験的な実在性をもたない」ところの「無限」が重要なモティーフとなっている。
TOMOMIの《distorted self-portrait》(1940mm×1620mm)は、薄紫色の画面に下から見上げる形で、恰も能面であるかのように、女性の顔のみを描いた作品。反対の壁面にはスマートフォンの画面に、顔の画像を加工するアプリケーションを用いて、目の大きさ、鼻の長さ、顎の形などを変更する映像が映し出されている。理想の顔を目指して加工を繰り返すのは、さながらいつまでも的に到達できない矢のようである。
なお、TOMOMIの肖像写真の加工に関するレポートでは、高等学校の美術教育(検定教科書)において自画像が立項されるのが1990年前後と比較的最近の出来事であることが指摘されている。冷戦体制やバブル経済の破綻によって大きな物語が失効した時期と、自画像が課題とされる時期とが重なっているのが興味深い。また、デジタル・ネイティヴの生徒たちにとって自画像が日常的かつ自明的なものであり、ネガティヴな感情を抱いていないという分析も印象的である。画像加工を不気味(unheimlich)と感じるか否かはやはり環境が多大に寄与するのだろう。