可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『第25回グラフィック「1_WALL」展』

展覧会『第25回グラフィック「1_WALL」展』
ガーディアン・ガーデンにて、2022年6月28日~7月23日。

ポートフォリオ審査による一次審査と、一対一で審査員と対話する二次審査を通過したタツルハタヤマ、池田洸太、儲靚雯、趙文欣、平松可南子の5名のファイナリストが、一人一壁面を使って作品を発表するグループ展。

タツルハタヤマは、絵画の制作とは、実在しないと分かっている守護天使への儚い希求であるという認識の下、「My angel is dead.」と題した絵画作品を出展。画面右側には、群青の三叉槍を左肩で支えながら左手で持つ天使(?)を描く。背中に見える翼は退化したかのように小さく、頭上に浮かぶ光輪(?)はミルク・クラウンのようで輝きを発することはない。画面左上と右下とを結ぶ対角線の下側を黄色く塗り込めた中に、オオカミとトラのハイブリッドのような獣を表わしている。天使(?)に襲いかかる猛獣ではなく、天使(?)の持つ三叉槍の尖端が気になって近寄ってきたという体だ。三叉槍がポセイドンのものならば塩水を生み出すかもしれない。潮水は、生命を生み出す始原の海を連想させる。天使と獣の周囲は、草木が疎らに覆うとともに、ピンク色の長い蛇が取り巻いている。床に延長された部分には水辺が描かれ、そこから蛇が伸びている。蛇はあるいは虹蛇であり、創造を象徴するのかもしれない。画面左には銀紙で縁取られた緑色の樹(?)が八岐大蛇のように枝を伸ばす。蛇への擬態なら、模倣という芸術行為のメタファーでもあり得る。

池田洸太は「雪」と題し、錆浅葱の布に背がいた草木、縫い合わせたクリーム色の画面に描いた雪融けの景観、景観を描いた紙や布を張り重ねた作品の3点で構成される。「雪は白く辺りを包む/雪の溢れた瞬間から出る/草や土に魅せられる」という作家は、作品の掛けられた壁面の手前の床に小石を並べている。融けた雪の中から顔を覗かせたた石の姿を伝え、木々から落ちる雪の音や、水嵩を増した小川の潺を連想させる。

儲靚雯は、「Our House Hour」を掲げ、距離を感じていた母親との関係をテーマとした絵画11点を展示。冒頭(?)に置かれた、天板部分に絵を描いた机型の立体作品は、脚が1本欠けており、不全や欠如の印象を演出している。比較的大画面の作品では、壁(衝立?)の向こう側に巨大なライチ(マンゴスチン?)や洋梨が姿を覗かせたり、岸辺に巨大なメロン(?)が置かれていたりする。もっとも、ルネ・マグリット(René Magritte)作品に登場するリンゴのように、個々の現実のモティーフを組み合わせによって異化効果を生じさせ、違和を感じさせるものではない。戸外や水辺で樹木や白鳥や魚と並列される果物は、恰も動植物やモノと人とが会話を交わす絵本の世界のように画面の中で調和し、破綻を来すことがない。例えば岸辺の作品に「我很爱母亲但我明白无法独占她子是选择了」とあるように、文章が描き込まれていることも絵本的な世界を立ち上げているのかもしれない。

趙文欣は、5つの白い台の上にそれぞれ小型のブラウン管テレビを設置し、それぞれに監視カメラの映像の短時間のアニメーションを流す、「Void Space | 真空空間」と題したインスタレーションを出陳。公園、駐車場、駅、美術館(展示室)、遊園地(観覧車)、部屋、果ては宇宙に至るまで、様々な場所に現れる人の姿が瞬間的に映し出されては消えていく(人の姿がないシーンもある)。ジョージ・オーウェル(George Orwell)の小説『1984年(Nineteen Eighty-Four)』で描かれる、"Big Brother is watching you"というスローガンに象徴される監視社会を連想させるというのも陳腐になほど監視カメラは現実に普及しているが、本作品はアニメーション表現によって生々しさを回避しており、社会風刺の意図はそれほど感じられない。作者は本作品に「最も自然で本物の姿の人々を記録したい」とのコメントを寄せている。オンラインはもとよりオフラインでも、人々の姿はフィクションであると捉え、現実に空虚を感じているのだろう。現実では見ることのできない「本物の姿」をアニメーションによってフィクショナルに暴き出す価値の転倒からは諧謔が看取される。モノクロームの画面に時折現れる赤い球は、虹を見るような幸運の感覚を鑑賞者に与えようと意図してのことらしいが、現状、新型コロナウィルスを想起してしまうのはやむをえまい。

平松可南子は「ありととり、持ち運べる水たまり」と題して絵画4点を展示。作家は絵画鑑賞を変容を含んだ体験にしたいと、噴水の形状や演劇の上演を引き合いに出す。カントの主張するような、絵画という対象それ自体を認識しているのではなく、複数の感覚を通じて得られた情報を感性・悟性・理性によって綜合されるのであるから、鑑賞体験は1回ごとに異なるということを訴えているわけではないだろう。それでは変容を含んだ体験は偏に鑑賞者(の態度)の問題となり、作家の作品は関係なくなってしまうからである。また、厚みのある作品が正面以外の上下左右からの鑑賞を促し、あるいは画面に紐を結び付けた鉛筆を取り付けることで作品の改変可能性を想起させるというような単純ものでもないだろう。変化しない画面の中に、いかにして変容を見出すことができるのか、作家の意図を汲むことは極めて困難であった。