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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 宮永愛子個展『くぼみに眠る海』

展覧会『宮永愛子展「くぼみに眠る海」』を鑑賞しての備忘録
ミヅマアートギャラリーにて、2022年7月6日~8月6日。

宮永愛子の個展。作家の曾祖父である陶芸家の宮永東山(1868-1941)が、セーヴル陶磁器製作所に学んだ陶芸家・彫刻家の沼田一雅(1873-1954)とともに制作した陶器用の石膏型を用いて制作した、ガラス作品「くぼみに眠る海」シリーズと、ナフタリン作品「くぼみに眠る空」シリーズとを中心に展観。

「くぼみに眠る海」シリーズは、石膏型を用いて制作した半透明のガラス製の動物彫刻。写実的な鳩(120mm×210mm×185mm)、球体に近い亀(135mm×155mm×120mm)、蹲るような水鳥(65mm×140mm×70mm)、応挙風の仔犬(130mm×120mm×150mm)、そして、型が見つからなかったのか脚がないために、一見すると(アール・ヌーヴォーではなくアール・デコであり、アナクロニスムとなる譬えかもしれないが)フランソワ・ポンポンの《シロクマ》のような風情の熊(95mm×310mm×120mm)が白い台の上に設置されている。その周囲には、石膏型とそれが収められていた古い木箱(林檎の輸送に用いられていた)も併せて展示されている。
ガラスの彫刻は、もとは陶器を制作するための石膏型に原料となる液体を流し込むことで制作された。「くぼみのふちに眠る記憶をたずねに行こう/くぼみにたたえられた海は/たっぷりとした重さをまとい/私の前にあらわれる」と作家は鏡文字を用いて記している。鏡文字によって、石膏型と作品との反転の関係へ注目するよう、促している。石膏型の空洞は無であるが、だからこそ作品という存在を生み出す母胎となる。そして、石膏型の空洞を反転させることで、生命を生み出す始原としての海という量塊を見ている。現在の空気が溶け込んだ「海」をガラス彫刻として固着させることは、現在を切り取る写真に通じる。鏡文字を用いる作家はミラー機構を備えたカメラなのである(現在ではミラーレス機構が主流になのかもしれないが)。
ところで、現在、映画「ジュラシック・パーク/ワールド」シリーズの最新作が上映されていることもあり、使われなくなった動物陶彫用の型を使って新たなガラス像を制作することは、絶滅した生物の遺伝子を採取して現代に蘇らせる状況をも想起させる。

「くぼみに眠る空」シリーズは、「くぼみに眠る海」シリーズ同様、陶器を制作するための石膏型を用いつつ、ガラスではなくナフタリンを素材として制作された立体作品。招き猫とそれが招き寄せる(?)2羽の水鳥(220mm×935mm×325mm)、四睡図(あるいは豊干禅師寒山・拾得の不在)を想起させる寝虎(300mm×400mm×280mm)、トランク・ケースに収められた3匹の鮎(470mm×690mm×350mm)の3点が展示されている。ナフタリンは常温で昇華するために、像の姿形は徐々に失われていく。昇華したナフタリンは密閉された透明の容器の中で再結晶する。昇華による気化が「海」から「空」へと視線を向けさせる。あるいは、ガラスとして固着され写真のように時間を止めた「海」の作品群との対照で、「空」のナフタリン作品は固着した状況からの解放であり、時間が常に流れていることを訴える。さらに、作品を閉じ込めた透明ケースによって、「空(そら)」が実は「空(くう)」でもあることに気付かされ、再び石膏型のくぼみ=空(くう)へと引き戻される。石膏型のくぼみとは閉じた系の象徴であり、その中で変転を繰り返すのは、ガラスやナフタリンの彫像ではなく、むしろ私たち自身である。しかもナフタリンの寝虎が伝えるように一炊の夢に過ぎない。