展覧会『松山賢展「絵画・彫刻・箱・縄文」』を鑑賞しての備忘録
丸善 丸の内本店 4Fギャラリーにて、2022年8月3日~9日。
絵画と土器で構成される松山賢の個展。
「絵の中の絵」シリーズは、1色で塗り込めた木製の箱を「絵」として、その中の底に絵画を描いた作品群。《絵の中の絵(蝋燭)》であれば黒い箱の中に灯った蝋燭が、《絵の中の絵(伸び)》であれば、ピンクの箱の中に両腕を上げた女性の立像が描かれている。箱の中に描かれている絵を見るためにはその画面に正対しなければならない。箱の設置場所と鑑賞者の位置によっては箱の側面によって視界が遮られてしまうからである。箱が鑑賞者に対して位置を規律している。また、箱は側面による遮蔽効果によって、額縁よりも強く違う世界への連絡ないし切り取りを意識させる。女性の口元や目だけを描いた《絵の中の絵(左目)》や《絵の中の絵(口)》では、女性を箱の中に入れて切断するタイプの手品を見ているような感覚が味わえる。
ところで、作家が「絵の中の絵」シリーズの箱を、箱の中の絵を見せる額縁のような装置としてではなく、「絵」として捉えているのは何故であろうか。
これは、「近代」であるとないとを問わずに言えることだが、元来、その「質料的」な側面において捉えるかぎり、何らかの物質的な限界を課されていない「表象」というものはない。無限という観念を表象することは可能だとしても、作成された表象そのものが無限であるということはありえないのである。種々様々な形態を取りうるであろうこの限界を、ひとことで「表象」の〈枠〉と呼ぶことにしよう。物質化された「表象」は必ず何らかの〈枠〉の内部に閉じこめられている。何らかの絵具塗料によって何らかの基底材の上に描かれた二次元的な絵画形象の場合に、この〈枠〉は典型的なかたちで、すなわち矩形の額縁の姿で出現するのだが、それ以外の「表象」作品においても、何らかの物質的な〈枠〉が作品の時空を制約し、限界づけていることに変わりない。立体的な作品でも言語的なテクストでも同じことだ。
「表象するもの」が「表象されるもの」から自分を切り離し、代替物としての二次的な位置に甘んじることをやめて、それ自体としての実在感を主張しはじめたとき、われわれはそのことの端的な現われを、〈枠〉の意識化=問題化のうちに見ることができる。「意味」だの「真理」だのといった上位の水準に視線や意識を差し向けることなく、あくまで「今、ここ」にとどまりながら自分自身を指さしつづけるかぎりにおいて、「イメージ」は、みずからを限界づける物質的条件としての〈枠〉の存在にことのほか神経過敏になるほかない。「表象」が自分自身の有限性を極端に研ぎ澄まされた意識で鋭く自覚し、その拘束に苛立つと同時に、それをまた自己生成の特権的な景気とするようにもなったところに、「近代」的な「イメージ」が生誕したのである。乗り越えがたい〈枠〉による限界づけを受け入れることで、みずからをなまなましい実在として露呈せしめることに成功した「イメージ」は、従って、本来的に「世俗的」たらざるをえないものとなる。「聖なるもの」とは、定義上、無限の外延を持つもののはずだからである。「イメージ」とそれを体験する主体との関係をめぐってすでに触れた「世俗化」の主題が、ここにもまた出現することになる。
「近代」的な表象作品は、〈枠〉の外部への参照がないという点で、聖性への領域から本来的に断たれているとも言える。「聖なるもの」の表象ならば、むろんありうるだろう。しかし、たとえ「聖なるもの」の表象がありえても、ここではもはや、それが何の表象であるかは二次的な問題にすぎないのだ。「イメージ」はもはや、単に「イメージ」それ自体として実在しているだけだからである。そして、「イメージ」の実在は、つねに有限の〈枠〉に囲いこまれているという点で、それ自体として「聖なるもの」としてあることはできない。「聖」の表象はありえても、「聖なる表象」は矛盾語法でしかない。どこまでも行っても人間の意識にはその外縁に辿り着くことのできない全体、全体を想像しがたい全体としてあるものが「聖」なのであり、そうしたものを表象するという操作はありえても、その操作によって形成された表象それ自体が無限であることは不可能なのである。(松浦寿輝『平面論―1880年代西欧』岩波書店〔岩波現代文庫〕/2018年/p.89-91)
絵画は物質的な〈枠〉によって有限を意識している。これは、「聖なるもの」の無限の広がりと対照的である。ところで、絵画は、近代に生まれた小説とも類比的である。
(略)結局、小説とは、特定の状況に内在する観点から人生を見ることだと言うことができる。一方では、主人公をはじめとする登場人物が内在する状況から見ているという意味では、描かれた人生は主観的なバイアスがかかっている。しかし、他方では、その人生は主人公の視点や思いから独立した客観的な事実である、と思わせなくてはならない。
(略)超越論的統覚の操作は、特定の観点から描かれている絵画の背景を塗ることに似ている、と説明した。その主体的な操作に媒介されて、かえって主体から独立した客観的な実在についてのイリュージョンがもたらされるのだ、と。小説の叙述によって実現されていることも、これと同じである。人生は状況の内部の主観的な観点から語られているのに、その人生は客観的な事実性を帯びているのである。(大澤真幸『〈世界史の哲学〉 近代篇1 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.389)
絵画という主体には、物質的な〈枠〉によって、「客観的な実在についてのイリュージョンがもたらされるのだ」。元より「絵の中の絵」シリーズにおける「箱=絵」も物質的な〈枠〉として機能し、強くイリュージョンをもたらしている。
だが、それだけではない。「箱=絵」は、「聖なるもの」の持つ無限の広がりをも手に入れようとしているのだ。均一に塗られた色面は、無限のメタファーと考えられるからである。ここにこそ、作家が「絵の中の絵」シリーズの箱を「絵」として捉えている理由がある。作家の聖性=無限の広がりに対する野心は、灯った蝋燭の絵をモティーフとした「写真の絵」シリーズにおいて幾何学的なアラベスクを重ねていること(絵画の縁にも描き込んでいる)や、土器怪獣その他の土器作品において表面を埋め尽くす幾何学的文様において明白である。
「絵の中の絵」シリーズの箱は、限界を示す額縁=〈枠〉ではなく、無限の広がりそのものである「絵」でなくてはならなかった。