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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『ヴォイド オブ ニッポン 77 戦後美術史のある風景と反復進行』

展覧会『ヴォイド オブ ニッポン 77 戦後美術史のある風景と反復進行』を鑑賞しての備忘録
GYRE GALLERYにて、2022年8月15日~9月25日。

1868年の明治維新から1945年の敗戦までの年数と、敗戦から現在までの年数とが、ともに77年であることに着目し、空虚(ヴォイド)と反復をテーマに、日本の現代美術を紹介する企画。16人の作家の作品を取り上げている(なお、[ ]のアルファベットは、作品リストで出展作家に割り振られたもの)。

本展タイトルから、「ヴォイド」、「ニッポン」、「反復」というキーワードを取り出す。頭の中で、「ニッポン」を表わす「日の丸」のように、白い布の上に赤い紐で円≒ヴォイドを作ってみる。その円を捻ると、∞(≒反復)が得られる。円が日本の通貨単位でもあることから、円≒貨幣を∞にするとは、銀行の信用創造そのものだ。明治維新を契機に導入された、資本主義の仕組みを支える機能である。そして、近代的な銀行とは、そもそもヴォイドを前提とした仕組みであった。例えば、イングランド銀行は、窮乏していたウィリアム3世の政府の下で設立された。

 まず投資家たちが出資して銀行を作る。その銀行が政府に貸し付けする。そのことで、国家財政を立て直すというわけだ。イングランド銀行の側にもメリットがあったし、そもそもメリットがなければ商人たちは王の国庫を助けるために銀行を設立しなかったはずだ。融資に知する対価として、イングランド銀行の側は、独占的に銀行券を発行する権利を得たのである。銀行券とは何か。それは、銀行の債務を表象する紙幣である。その紙幣を貨幣として流通させることが、イングランド銀行に許可されたのだ。
 (略)
 そもそも貨幣とは何であるかを思い起こしておこう。貨幣は、負債――別の表現を用いれば「信用」――に由来する。譲渡可能性を有する負債=債権、それこそが債権であった。譲渡可能とは、原債権者が債務者の債務を第三者に譲り渡し、その第三者が、別の債務の決済にそれを使うことができる、という意味である。イングランド銀行の銀行券は、譲渡可能な負債という、貨幣の定義に適合している。
 (略)まず、国庫が破綻しているので、王(あるいは政府)には信用力がない。銀行の支援によって王は信用力を回復し、他方、銀国の方は、一民間企業に過ぎないので、自らが発行する銀行券に十分な流動性を与えることができない。だが、王の後ろ盾を得たことで、銀行券は流動性を確保した。要するに、イングランド銀行は王に信用支援を与え、王の方はイングランド銀行流動性支援を与えているのである。
 これが、一般になされている説明だが、よく反省してみると、この仕組みはほとんどマジックのようなものであることがわかる。銀行券は、直接には、銀行の債務を表示している。なぜこの銀行券、つまりイングランド銀行の債務は、譲渡可能で、流動性をもつのか。それは、銀行の主たる資産が、銀行の王に対する債権だからだ。したがって、銀行券は、究極的には王の債務を表わしていることになる。もし、銀行券を最終的に裏付けているものが王の負債ではなく、一般の人の負債であったら、その銀行券は流通しなかっただろう。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇1 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.357-359)

銀行券(紙幣)とは銀行に対する債権であり、その引き当ては銀行の王=政府に対する債権である。ところが、そもそも王=政府の国庫は空っぽ(ヴォイド)であるから、銀行を設立したのであった。

本展の中心には、赤瀬川原平[G]の日本銀行券をモティーフとした一連の作品がある。金銭的価値を表象する紙幣を、作成権限の無い者が忠実に作成することによって、ひとまずは価値のないものへと反転させてしまう空虚(ヴォイド)を生んでいると言える(なお、本展には出展されていないが、赤瀬川原平の作品に、千円札の200倍に拡大模写した《復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)》がある)。

 1963年の「読売アンデパンダン展」を前にして、私はすでに自分の手で作る作品価値というものに絶望していた。1人の作家の個性にもとづくという表現ということでは消化しつくせないものを抱え込んでいたのだ。何年か前から、画家としての自分の手わざを消した無機質な線による絵画、あるいは印刷物によるコラージュをはじめているところに、すでにそのニュアンスはあらわれている。そのベクトルがさらに明確となり、創造そのものを否定するところに立ち至ったのだ。いまから振り返ればさまざまな論理的分析ができるだろうが、そのときは、もはや作るものがない、というのが正直な気持だった。
 要するに画家としての私は、描くものがない、というのが正直な気持だった。
 私はその対象に紙幣を選んだ。描く対象としてまるで価値のないもの、その無限遠のところに紙幣があった。紙幣をそのまま精密に描写するという、描くと言う行為でこれほど無機質で無意味なものはないと思った。その点では自虐的な作品である。(赤瀬川原平『芸術言論』岩波書店岩波現代文庫〕/2006年/p.151-152)

「描く対象としてまるで価値のないもの、その無限遠のところに」ある紙幣を描くことで、価値があるものを価値のないものへと反転させる(泉下の宮武外骨へに「金無限圓」を献じた《紙型千円札(宮武外骨への謝礼)》では、無限の価値を
ゼロへと反転させてもいる)。だが、そもそも、銀行券とは、価値のないものであった。「王様は裸だ」と叫ぶことが主眼であり、だからこそ当局により取り締まられたのではなかろうか。《大日本零円札》は、模造ではない「本物」の零円札である。それこそ銀行券(紙幣)がヴォイドを引き当てにしていることを直接提示している。そして、ヴォイドを担保にできるなら、貨幣は無限の増殖が可能となる。
赤瀬川原平の「日本銀行券」が本展の中心となる、もう1つの理由は貨幣の無限の増殖に通じる、反復である。紙幣自体の性質のみならず、それを模造する行為に、反復が重ねられている。

 ところがこの作品思考にはもう1つの側面がある。絵画の世界とそれを包む現実世界の直接接点を探しながら、フィクションとノンフィクションを1つに纏める装置の、そのスイッチとして紙幣に対面したわけである。
 私は千円札を拡大して模写する作業をはじめた。しかし紙幣というのはその表面のイメージだけでなく、それが印刷物として複数的存在としてあることを本質としている。だからその構造の模写として千円札を印刷した。町の印刷所に発注して、千円札の面一色刷りの物件を作ったのである。これで画家の手わざは完全に消された。(赤瀬川原平『芸術言論』岩波書店岩波現代文庫〕/2006年/p.152)

手わざこそ消されていないものの、「フィクションとノンフィクションを1つに纏める装置の、そのスイッチとして紙幣」を制作しているのが、青山悟[H]の刺繍による1万円札、《Just a piece of fabric》である。ミシンを用いて制作する場面が映像で紹介され、針の上下運動が反復のイメージを強調する。三島喜美代[E]《Comic Book 21-S》は、陶芸による漫画雑誌の写し。量産品を手間暇かけて1点ものの作品に仕立てる点で、《Just a piece of fabric》に通じる。

 (略)マルクスの経済学の述語を用いるならば、任意の商品は、使用価値と交換価値をもつ。貨幣使用価値は、交換価値であることに尽きる。つまり、貨幣は、商品(使用価値)を得るためにしか使うことができない。貨幣は、しかし、任意の商品を得るための手段となる。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇1 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.373)

使用価値を伴う商品をシニフィエ(意味)を伴うシニフィアン(記号群)に擬えるなら、貨幣はシニフィエ(意味)を持たないシニフィアン(記号群)となる。シニフィアンが世界を切断する作用と捉えるなら、貨幣は増殖しつつ、次々と世界を切断していくだろうか。
ところで、大山エンリコイサム[I]の《FFIGURATI #89》に描かれた記号の連続による有刺鉄線のようなモティーフは、画面をうねるようにして埋め尽くす。山嶺の上空を覆う数多の爆撃機を描いた、加茂昴[K]《追体験の風景 #1》と併せ見ると、∞の形に飛行する爆撃機を描いた、会田誠の《紐育空爆之図(戦争画RETURNS》(出展されていない)を連想せずにいられない。
無数の爆撃機が国境線を変える(世界を切り分ける)戦争を象徴するなら、世界を切り分ける貨幣もまた、無数の爆撃機と言えるかもしれない。