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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 野口哲哉個展『this is not a samurai』

展覧会『野口哲哉「this is not a samurai」』を鑑賞しての備忘録
ポーラ ミュージアム アネックスにて、2022年7月29日~9月11日。

鎧兜を身に付けた人物たちを造形する野口哲哉の個展。

 武士は、その名の通り、何よりも「武」をその自己規定の核とする。武者であり、軍人であり、兵隊である。つまり、戦さにおける暴行・傷害・殺人を本来の役割とする特殊な職業人である。しかも、その戦闘は、遙か遠方から精密機器を操作するようなものではない。1人1人が弓・鉄砲・槍・刀などを持って、顔の見える敵と対峙し、その生身の手応えを感じ、返り血を浴びつつ遂行するものである。個々人の勇猛と武芸とが意味を持ち、個々人の戦闘業績が評価されうる。(略)
 さらに、戦闘は、しばしば農作物の意図的蹂躙・放火・略奪(「分捕り」)、そしておそらく強姦を伴った。それは、ひた隠しにされた職業上の秘密などではなかった。「切り取り強盗武士の習ひ」とは徳川の世の末まで慣用句である。(略)
 過去の(?)戦争とは概ねそういうものであるのかもしれない。そうであるならば、軍人を卑しめる文化があっても当然であろう。例えば、中国には「よい人は兵にはならない。よい鉄は釘にはならない。」(「好人不当兵。好鉄不打釘。)という諺がある。所詮ならず者たちである暴力専従者を儒学的教養人が率い、必要に迫られた時に限りやむを得ず戦わせるというのが、中国・朝鮮での主流の考えであった。しかし、日本では「花は桜木、人は武士」である。武士が、公家や寺社の権威と権力をじょじょに簒奪し、戦国の世を経て一円的支配を確立し、揺るぎない統治身分に成り上がったからである。それ故、公家でも僧侶でも町人でも百姓でも、そして学者でもなく、武士であることに、彼等は誇りを持ちえた。(渡辺浩『日本政治思想史―17~19世紀』東京大学出版会/2010年/p.34-35)

暗闇でスマートフォンの画面を操作する鎧兜の人物を描く《21st Century Light Series~The Tap~》や、アルネ・ヤコブセンのエッグ・チェアに包み込まれるように座る鎧兜の人物の立体作品《Man in the egg》など、武士を現代風俗の中に置いたアナクロニズムが生み出す滑稽さが際立つ。現代人に武士の姿を重ねた諷刺であろうが、むしろ、江戸時代、「元和偃武」後の武士とはまさにアナクロニズムの存在であったことを偲ばせる。

 織田信長の覇権も、豊臣家の統治も、あっけなく終わった。それ故、大坂の陣が終わり、徳川氏の全国支配が確立した時にも、これが「戦国の世」の最終決着だとは容易に判定できなかった。その後、5年経ち、10年経っても、これは単に「戦国の世」の一時的休止しなのかもしれなかった。それ故、大坂の陣直後に発布された武家諸法度も、第1条で「文武弓馬之道、専可相嗜事」と指示し、治不忘乱、何不励修錬乎」と警告している。臨戦態勢を解くわけにはいかなかったのである。しかも、軍事政権のそんりつは、戦争勃発の可能性に依拠する。「もはやどこにも敵はいない、天下泰平だから武士は要らない」ということになっては、統治組織全体が弛緩し、崩壊してしまう。いつか起こるであろう「自然の時」(いざという時をいう)のために待機の姿勢をとり続けるほかはなかった。
 個々の武士としても、武人としての自己規定を変えるわけにはいかなかった。そのことに誇りを持つことで、彼等の志気も組織の規律も保たれるのである。彼等は、次の戦さを待ち続けた。待ち続けて、世代交代を続け、たまたま2世紀以上経ってしまったのである。(渡辺浩『日本政治思想史―17~19世紀』東京大学出版会/2010年/p.41-42)

作家は、鎧兜を「肉体を損耗させない」ための「生きて帰る為の工夫」であると物理的な保護機能に着目し、「海に生きる海老や蟹のよう」な甲殻類が持つ「環境が人に与えた殻」に擬えている。鎧兜とは、長きにわたる泰平の世においては、勇猛な武士の擬装装置であった。

 そこで、「恥を知る」勇猛な武士の外観と平穏な秩序とを両立させる種々の行動様式が、次第に形成されていった。いわば擬装としての武士道である。
 武士同士の「左様でござるか」式の堅苦しい言葉遣いと勿体ぶった礼儀作法の背後には、相互に恥をかかせることへの恐怖がある。軽い身分の武士であっても、理由のない屈辱を与えれば死に物狂いで刀を抜いて反撃してくる可能性がある(そうしないと、後で当人が過酷に処罰されうる)。そのおうないさかいは避けたいのが今や多くの武士の気持ちだったろう。そこで、誇り高いはずの武士であるからこそ、言葉は際細心にならざるをえないのである。
 ある大名は、こう家来に命じている。
 喧嘩争闘は、武士の辱を受て不得已相果し、身を潔くするの儀ありといへ共、義を以てする者稀れに、非義の死は多し。…士道に無害事は令堪忍ば、争闘は有之間敷也。仇討之者助太刀願ひ候共、頼れ間敷事。
 しかし、臆病者・卑怯者と見えてもまずい。例えば、人に追われて屋敷に逃げ込んだ者をかくまわないのは武士として卑怯である。しかし、堂々とかくまえば他家との間で騒動が起きかねない。どうすればよいのか。この大名の指示は、走り込まれて追走者から問われたならば、たとえ確かに見られていてもあくまで「左様之者は不参候」と答えよ、あくまで言い張られたら自分たちで屋敷内を捜索すると返答し、しばらくして「何方へ抜出候哉、又御見違に候哉、屋敷内には不罷有由」を言え、というものだった。では、浪人などが何か訴えてきたらどうするか。「他出仕候、家老共に他出仕候」と返答せよ、つまり、居留守を使えというのである(以上、『酒井家教令』元禄12/1699年)。
 抜刀して走って来る者に道で行き会ったらどうすべきか。傍観してやりすごせば、後で臆したかと言われかねない。しかし、こちらも抜けば何が起きるか解らない。そこで、通しておいて、後から「其分にては置がたし」と言って追いかけてみせというのが1つの説だった(『葉隠』11)。道の「一方を堅め」、他方に逃げるのは関知しないという態度をとれという説もあった(『武士としては』)。
 こうして「武士道」は、ほとんど武士らしさを擬装する演技と化した。それは武士身分全体が陥った奇妙な体制的ディレンマに由来する、空虚で、しかも止めるわけにはいかない真剣な演技だった。(渡辺浩『日本政治思想史―17~19世紀』東京大学出版会/2010年/p.44-45)

郷土玩具のキジウマに跨がった武士の立体作品《rocket fuel》など、ごっこ遊び、すなわち武士たちの擬装を象徴する作品と言えよう。"This is a samurai."であり、同時に"This is not a samurai!"である。

 福沢〔引用者補記:諭吉〕によれば、「尊皇攘夷」は「枝葉」にすぎない。事の真相は、「自由」を求めた「人民」による「専制」「暴政府」打倒である。但し、彼がいう「自由」とは、言論の自由でも信教の自由でもない。同年〔引用者註:1875年〕の『文明論之概略』で、彼は、こう説明している。
 我国の人民積年専制の暴政に窘められ、門閥を以て権力の源と為し、才智ある者と雖も門閥に藉てその才を用るにあらざれば事を為すべからず。一時はその勢いに圧倒せられて全国に智力の働く所を見ず、事々物々皆停滞不流の有様に在るが如くなりしと雖ども、人智発生の力は留めんとして留む可からず、この停滞不流の間にも尚よく歩を進めて、徳川氏の末に至ては世人漸く門閥を厭ふの心を生ぜり。
 つまり、「自由」とは、世襲身分制度からの解放であり、能力ある者の「立身出世」の自由なのである。
 彼の『西洋事情』〔引用者註:1866年〕冒頭の「文明の政治」の要件としての「自由」も同じである。何よりも「門閥を論ずることなく…天稟の才力を伸べしむる:「ことである。
 もっとも、以前から、町人であったならば、家業に精を出し、「才覚」を振るって家業の繁昌と家格の上昇をめざすこともできた。百姓身分でも、すさまじい勤勉・工夫・節倹によって土地を買い足し、立派な家を建てるといった可能性が無いわけでも無かった。これに対し、「立身出世」の可能性がほとんど無かったのが、下級武士である。彼等の大多数はそもそも意義を実感できるような仕事はしていない。武勇も才能も、活かす機会は無い。内職に出精して手間賃は増えても、武士としての出世は無い、努力のしようさえ無いのである。「治世には役人の外は無用の長物の様に、農工商の輩は思ふも多」く、「町人百姓も侮り軽じ、士魂下り眠て、武威次第に軽く成」っていた(高野常道『昇平夜話』寛政8/1796年序)。かといって、自分の土地も無い以上、彼等は憤然として武士を辞めるというわけにもいかなかった。
 しかも、彼等は困窮していた。元来、米の量で定められた禄では、市場経済化に伴って困窮は必至である。さらに、百姓の抵抗で税収を増やせない大名は、その禄さえ18世紀半ば以降、往々削減した。時には、半減さえし、やがてそれが常態化した(「半知」)。(略)
 (略)
 下級武士は、金もなく、威信もなく、憧れもされなかった。儒学を学んで、家柄ではなく才徳によって登用されるべきだと信じるようになっても、清国・朝鮮国と異なり、科挙制度は無かった。福沢が後に「親の敵」と呼んだ「門閥制度」だった(『福翁自伝』)。そのような下級武士にも、しかし、誇りだけはなおあった。その狭間で鬱屈していた彼等(つまり、「不平士族」である)にとって、対外緊張感が生じ、「海防」が課題になったことは、ある意味で救いだった。武士として活躍する日がついに到来するという予感に、文字通り武者震いした人々がいたのである。「出奔」「脱藩」の「士」の多くが下層だったのも当然であろう。また、大名家の中でもとりわけ誇り高く、しかも経済的困窮が苛烈だった水戸徳川家で、対外危機を強調し、「英雄」「豪傑」が立って世を立て直すことを高唱する一派(「水戸学」、さらに「天狗党」)が出現し、多数のテロリストを生んだのは、示唆的であろう。(渡辺浩『日本政治思想史―17~19世紀』東京大学出版会/2010年/p.398-401)

《PRISM》の鎧兜の人物は立って頭を抱え、《BIAS》の鎧兜の人物はしゃがみ込んで頭を抱えている。泰平の世の武士は鬱屈していたのだ。そして、会場内で唯一実在のモデルがいる立体作品《The gradation 河津伊豆守祐邦像》は、遠くを眺めて身体を捩り不安定に立つ。彼の姿は、幕末の武士の不安定な立場が象徴されている。