可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 堤千春個展『理想自己形成』

展覧会『堤千春個展「理想自己形成」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2022年9月5日~10日。

アメリカのアニメーションに登場するキャラクターのような(?)、デフォルメされた少女を主題とした絵画9点(1点を除いて2022年の作品)で構成される、堤千春の個展。

冒頭に展示された《笑顔であいさつ》(652mm×530mm)は、右手を挙げて挨拶する、赤い髪の少女を、一部をマスキングして緑を塗り重ねたように表した作品。丸い目は内目角のところだけ吹き出しのようにすぼまっている。鼻梁は曖昧で鼻尖と尾翼とが作る三角形の鼻、その下には子宮(左右の卵管と子宮内腔)を模式化したような形の口が笑みを形作る。仮面のような印象の顔を、どこまでも広がっていそうな赤い髪が取り巻いている。首や脇の位置に皺が寄る白いボディスーツの身体は、背景の緑によって、幼い子が描く人物のように単純化された胴と手脚とにトリミングされ、この少女を頭の割合が大きい幼児に見せている。口から吹き出しのように周囲(背景)の緑に繋がる形で、タグ(グラフィティ)のような黒に近い紫の記号が描き込まれている。未だ文字の書けない子どもの願望を表現したものとも、特定のグループだけで通じるスラングのようにも、さらには言葉そのものに対する不信を突き付けているようにも見える。いずれにせよ、幼さを求める社会の諷刺であることは疑いない。

ノーブレス・オブリージュ》(1940mm×1620mm)には、ピンクのキャットスーツを身に付け、喜びを表現するように両手を胸の前で組む少女の上半身が描かれている。顔の4分の1近くありそうな巨大な丸い左目はキラキラ輝き、右目は豊かな黄色い髪のために隠れている。鼻は四角錐に近い形で鼻孔は(漫画でよくあるように)表わされていない。口は左右の開きつつ下唇がU字に下がることで笑顔を作っているが、口の中は真っ暗な闇が広がる。淡いペールオレンジにピンクが差した顔の肌は仮面のようであり、背景の群青によって頬の線が細くなるよう修正されていることを露悪的に示している。描かれているのは、恰もディズニーランドのミッキーマウスのように、笑顔を振りまき、大袈裟な動作で喜びを表現する、少女というキャラクターの着ぐるみである。 期待される愛らしい少女を作り、演じなくてはならない社会的圧力を「ノーブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」と表現したのであろう。巻き付く豊かな髪は少女を縛る拘束具であり、撥ねている毛は茨である。頭上に見える王冠のような形は荊冠なのだ。笑顔の向こう側、口に覗く深淵にこそ注目し、そこから漏れる声を聞かなければならない。

唯一英語のタイトルである《alive monitoring》(1940mm×1620mm)は、展示作品中唯一2020年の作品で、モティーフも描き方も、他の作品とは趣を異にする。ベッドの置かれた、市松模様の床と赤い壁の部屋の中に飛び込んできた裸の少女を描く。少女は艶やかなラテックス製の人形のようで、その写実的な描き方とは対照的に、窓枠も窓外の景色も、そこにかかるカーテンも描かれたものであることが強調されている。2本の得体の知れない大きな黄色いチューブ(しかも小さな亀裂から血が滴っている)や、それに巻き付く緑色のロープ、さらに大きな平板な花が室内に浮遊し、ところどころから白い煙が上がっている。ベッドは傾き、シーツがずり落ちてマットレスが露出している。この部屋はサイバースペースなのだろう。赤い壁には覗き穴があり、そこには少女を見詰める眼が描かれている。マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)の、扉に穿たれた穴から女性の裸体を覗き見る《(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ》(通称《遺作》)を下敷きにしていることは疑いない。ベッドの存在は横たわる少女を連想させ、窓外の光景は《遺作》の背景に似ていなくもない。何より、床の市松模様は、デュシャンとの結び付きが強いチェス(盤)というだけはない。《遺作》には、鑑賞者から「見えない」床にチェス盤が表わされているのだ。そして、作家は、《alive monitoring》において、《遺作》とは「逆」に、扉の内側から、扉の内部を覗き込む鑑賞者を描いているのである。

 この遺作のキー・イメージとしてデュシャンが青年時代に慣れ親しんだ初期ピンナップの傑作ともいうべきガス灯のポスターのけいしきをそのまま借りていることは重要なことだ。19世紀末から20世紀初頭に大流行した、ミュシャのイラストレーションによく似たこのアウアー灯のポスターは明りをともされたガス・マントルを持つ半裸の娘が露わな乳房の下でタックしたシースルーの煽情的なスリップをつけ、一方の手に遺作の女性が左手で高く掲げていたアウアー灯を持ちあげ注意をそこに集めようとしている。ポスターの縁のまわりにはアール・ヌーヴォー有機的に成長するツルや花といった植物図案のかわりにガス技師が扱う複雑な鉛管類や鉄枠がビザールな装飾文様となってキッチュなポピュラー・イメージを強くかもしだしている。
 ピンナップとは見る者に性的な魅惑ないしは興奮を誘い、対象と一定の感覚的な関わりをもたせるような複製品のイメージである。(略)ピンナップ・イメージによって見る者が得られるのは本性を欠き正確を喪失した1人の女であり、匿名であるがゆえにひときわ煽情的になる性のシンボルだ。ピンナップはナルシスティックな円環をなして自閉する空間のなかでセクシュアルな私的関心をもって所有することができる。逆にいえばピンナップの女たちは〈私〉の性的な観念によってしか存在しえない。それはかつての女たちへの〈愛〉とは違い、ある瞬間から事物の存在や様相が変化するような精神状態は起こりえない、いわば愛の不在を確認するための装置なのである。
 (略)
 (略)遺作はピンナップ的環境に取り囲まれている社会構造のひとつのメタファーであり、自らの創造したものによって逆に本質を離れたある種の感情を創造されるという盗作関係を生き始めてゆく空間の模型なのである。
 「個と共同体が密接に運動し、あるいは明確に対立していた時代にはピンナップはいらなかった」とかつて石子順造は言ったが、確かにピンナップとは想像力圏をも規定してしまう近代の〈私〉性の成立と深い関係を持ち、私室の問題とつなげて考えることもできるものだろう。それは何より20世紀の所産であり、私的な空間を限定する風景であった(伊藤俊治『裸体の森へ』筑摩書房ちくま文庫〕/1988年/p.102-104)

《遺作》のキーイメージとなったピンナップの祖型であるガス灯のポスター。そこに描かれたツルや花のイメージをも《alive monitoring》は承継していると言えよう。そしてかつて「ピンナップはナルシスティックな円環をなして自閉する空間のなかでセクシュアルな私的関心をもって所有することができる」ものであったが、それはサイバースペースでは「共有」される「情報」へと変容した。覗き穴を覗いているのは1人だけではない。常に他者の視線が介入するのである。《alive monitoring》の中の「眼」が表わすのは、デュシャンの20世紀的、ピンナップ的鑑賞者であり、展示されている《alive monitoring》という絵画の鑑賞者は、ネット視聴者として、常に画中の「眼」と少女の裸体を共有するのである。"Anyone alive monitoring"という窃視の常態化こそ、作者が描き出したものである(aliveは叙述用法か後置修飾で用いないと落ち着かない)。そして、窃視の対象が少女であることが、「子供っぽさ」に執着する日本社会の戯画となっていることは疑いない。そして、改めて2022年制作の8点の絵画を眺めれば、そこにはネオテニーに絡め取られた現代女性の姿ばかりが存在するのである。