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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『シアトル→パリ 田中保とその時代』

展覧会『シアトル→パリ 田中保とその時代』を鑑賞しての備忘録
埼玉県立近代美術館にて、2022年7月16日~10月2日。

アメリカの女流詩人と結婚し、裸婦を描いて成功した画家として語られてきた田中保(1886-1941)の実像を、近年の研究成果を踏まえて紹介する回顧展。所蔵作品を中心に86点(うち3点は8月23日からの後期展示で入れ替え)を、フォッコ・タダマの同門である清水登之の8点や、エコール・ド・パリの作家(ジュール・パスキン、エルミーヌ・ダヴィッド、藤田嗣治、マルク・シャガール、モイズ・キスリング)の作品7点とともに展観する。

【第1章 田中保、船出する】
旧制浦和中学在学中、父の死により家業が傾いた。卒業後の1904年末、日露戦争の最中、日本郵船の神奈川丸に乗船して単身シアトルへ渡る。アメリカでは1882年に中国人排斥法が制定され、中国人移民に代わって日本人移民の雇用が進んだが、今度は日本人が排斥の対象となった。1909年の日米紳士協約により日本政府が自主的に新規移民を規制することになる。様々な仕事をしながら夜学で英語を身に付けた田中は、1912年にはオランダ出身の画家フォッコ・タダマに師事。同年、ワシントン州立美術協会ギャラリーに初出展した。
自画像[001]、裸婦の習作[002-004]やシアトルの風景のスケッチ[014-016]などを展示。清水登之の6点[005-010]も。

【第2章 シアトルの前衛画家】
1914年の《マドロナの影》[025]で画家としての地位を確立。同作は1915年にはパナマ・パシフィック万博に出品された。同年、シアトル中央図書館で行われた個展で詩人で美術批評家のルイーズ・ゲブハード・カンと出会う(ベルクソンについて語り合ったという)。1917年、ルイーズと結婚するが、異人種間の結婚はスキャンダラスに報じられた。1919年の『シアトル・スター』紙にはルイーズの異人種間結婚に関する主張が掲載されている("SEATLE WOMAN, WIFE OF JAPANESE ARTIST, CHAMPIONS INTERMARRIAGE")。
《マドロナの影》[025]には、ネグリジェと思しき薄いワンピースを纏った女性が、サーモンピンクの布を手に佇む姿が描かれている。黄色い光が溢れる背景に比して、女性の姿はそこまで明るく表わされていないが、光が当たっていることは影の存在からも明らか。右斜め前方から捉えられた女性は画面に対して横顔を向け、顔は判然としないが、その頬は輝いている。

【第3章 肖像画が明かす人間関係】
田中がシアトル時代に制作した肖像画を展観。心の哲学や美学、さらに超心理学について研究したカート・ジョン・デュカス[038]、極地探検家で人類学者のヴィルヒャムル・ステファンソン[039]、動物愛護団体を起ち上げ市長選に挑戦したエレノア・リカビー[042]など、判明した像主について解説されている。文学者のグレン・ヒューズをモデルとした《若い男の肖像》[041]の背景には、エレノアの肖像画《黒百合》[042]が描き込まれている。

【第4章 パリの異邦人、ヤスシ・タナカ】
異人種間結婚や日本人差別の問題で行き詰まった田中はルイーズとともに、1920年にパリに渡ることになった。モンパルナスにはジュール・パスキン、モイズ・キスリング、藤田嗣治など多くの芸術家が集まって暮らしていた。田中夫妻の隣にはエズラ・パウンドが住み、ルイーズはジェイムズ・ジョイスと交流した。

【第5章 パリのサロン画家】
田中は滞欧していた東久邇宮朝香宮夫妻と交流し(《裸婦》[062]は買い上げ)、個展は成功を収め、各地のサロンにも精力的に出展した。他方、帝展へ出展は不首尾に終わり、個展を開催しても現地の日本人画家は1人も訪れない。帰国準備を進めていた矢先には母の死が伝わる。結局、日本に戻ることは無かった。田中の作品はそれなりの値が付いていたため、国外(日本)に持ち出す際の税額も高かったと考えられるという。裸婦を描いて成功した画家は、実のところ日本に戻りたくとも戻ることができなかったという事実を指摘する。