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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『メメント・モリと写真 死は何を照らし出すのか』

展覧会『TOPコレクション メメント・モリと写真 死は何を照らし出すのか』
東京都写真美術館にて、2022年6月17日~9月25日。

ハンス・ホルバイン(子)の版画『死の像』シリーズ(国立西洋美術館所蔵)における中世のメメント・モリのイメージを枕に、スーザン・ソンタグの『写真論』の一節「写真はすべて詩を連想させるもの(メメント・モリ)である」を引用してメメント・モリと写真とを接続し、所蔵作品120点を3章構成で紹介している。第1章「メメント・モリと写真」では、W. ユージン・スミス(7点)、ロバート・キャパ(3点)、澤田教一(4点)らの戦場を捉えた写真とともに、マリオ・ジャコメッリ(3点)、セバスチャン・サルガド(6点)、ウォーカー・エヴァンズ(4点)の作品を展観。第2章の題名「メメント・モリと孤独、そしてユーモア」は、ロバート・フランクの写真集『アメリカンズ』にジャック・ケルアックが寄せた序文に登場するジュークボックスと葬式に触発されて名付けられている。ロバート・フランクの「アメリカンズ」からの3点(他に2点、計5点)、荒木経惟の「センチメンタルな旅」シリーズ(12点)、リー・フリードランダ-(6点)、ウィリアム・エグルストン(6点)、ダイアン・アーバス(5点)、牛腸茂雄の「日々」のシリーズ(8点)が陳列されている。第3章「メメント・モリと幸福」では、藤原新也のその名も「メメント・モリ」シリーズ(12点)をはじめ、ヨゼフ・スデック(8点)、ウジェーヌ・アジェ(12点)、東松照明(9点)、小島一郎(10点)らの作品を通じて、生の捉え直しを促す。

冒頭のハンス・ホルバイン(子)の版画『死の像』シリーズ25点を展示するブースを抜けると、藤原新也の「メメント・モリとは何か。」という文章が掲示されている。古代ローマでは「今をせいぜい楽しめ」という享楽的メッセージだったメメント・モリが、14世紀にヨーロッパを襲った疫病によって、キリスト教的な徳化や戒めを説くものに転換した。資本主義の快楽原則は死をネガティヴなファクターとして隠蔽してきたが、とりわけ地球環境問題という自然からのメッセージを契機として、メメント・モリの内容を再度捉え直す必要があると訴えている。
早川千絵の映画『PLAN 75』(2022)では、75歳になると死を選択する権利が国から附与される「プラン75」が施行された近未来の日本を描いていた。劇中の「プラン75」のプロモーション・ヴィデオでは、生まれることは自分で決められないけれど、死ぬことは決められると喜ぶ女性の姿が映し出されていた。また、過日(2022年9月13日)、映画監督のジャン=リュック・ゴダールがスイスで合法的な自殺制度を利用して死去した。今日のメメント・モリとは、死の自己決定についての考察を促すものであろう。
ハンス・ホルバイン(子)の版画『死の像』の時代、王侯貴族であろうが行商人や水夫であろうが、死神が等しく訪れたろう。だが、現代では医療資源を利用できる者とそうでない者とで、死神の来訪時期は異なっている。今後、死の自己決定権が合法化されれば、その格差は顕著になるだろう。
死に関するものに拘わらず、自己決定権とは、およそ問題を自己責任として犠牲者に転嫁する仕組みと言っても過言ではあるまい。例えば、メロン果汁2%の飲料があったとして、ほぼメロンだけの写真を掲載したパッケージに「まるごと果実感 厳選マスクメロン 100% MELON TASTE」と記載されていた場合、メロン果汁100%と誤認した消費者に対し「メロン『テイスト』100%」と書いてあったと誤認の責任を追求できるのだ。発売元はそう判断して販売していたのであり、消費者庁がたまたま「景品表示法違反」に当たるとしてそれを許さなかったに過ぎない。結局、自己決定に十分な情報が与えられているとは、責任を押し付ける側の贖宥状のようなものである(例えば、約款など読めもしないし、たとえ読めたとしても消費者はそれを受け容れざるをえないのだ)。
死の自己決定権。その行使しか残されていない者は、自由であろうか。メロン果汁2%の飲料を100%と「信じて」飲み干す自由に過ぎないことはないだろうか。