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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『第八次椿会 ツバキカイ 8 このあたらしい世界  2nd SEASON “QUEST”』

展覧会『第八次椿会 ツバキカイ 8 このあたらしい世界 2nd SEASON “QUEST”』を鑑賞しての備忘録
資生堂ギャラリーにて、2022年8月27日~12月18日。

資生堂花椿マークに因んだ「椿会」を冠して構成される作家グループによる展示シリーズ。杉戸洋、中村竜治、Nerhol、ミヤギフトシ、宮永愛子、目[mé]をメンバーとする第八次椿会は、2021年から2023年までの足掛け3年で、パンデミック後の世界を構想する。

資生堂ギャラリーは地下にある。エレベーターで受付脇に降りることも可能だが、1階から階段で下っていくと、その階段の手摺沿いに白いロープが渡されている(中村竜治・杉戸洋《ロープ》)。階段の踊り場には青いゴムホースが捲かれて無造作に置かれている(ホースは中村竜治の出品)。展示空間の照明は抑えられ、暗い。薄暗い中、白いロープが導線として働いている。踊り場から展示室へ降りていくと、LEDに置き換わる前によく見かけた古いタイプの街灯(目[mé]の出品)が上部に設置され、その下に屋外で用いられるプラスティック製の白い椅子がある。椅子の下の砂袋からは雑草(姫昔蓬)が伸び、あるいは座面を覆う(椅子、砂袋などはNerholの出品)。壁や床には束になった青いロープがある。
展示空間は大小のほぼ正方形が1つの角で接するような平面を持ち、小さい正方形の空間は一部が階段の踊り場で覆われている。大きい方の空間の一番大きな壁面(横幅9.35メートル)には、全面に映像が映し出されている。暗い画面の中央より高い位置を行き交う車の光が右から左、あるいは左から右へと流れ、交差する。夜、大きな川に架かる橋の光景を河川敷から正面に捉えた映像で、自動車と橋の街灯以外にはほとんど何も見えない。虫の音が聞こえる。タイトルがそのまま作品の説明になっている目[mé]の映像作品《目が、ぼーっと考え事をしに普段からよく行く河川敷。その眺めと白鳥健二さんが対峙する。白鳥さんは全盲の美術鑑賞者・写真家。白鳥さんと景色の間で交わされた対話の記録。》である。ヘッドフォンを利用すると、虫やカエルの声などの声に加え、断続的に挿入される白鳥健二の語りが聞こえる。映像作品に向かって右手には白詰草(学名Trifolium repens)の写真を重ねて彫り込んだNerholの《Trifolium repens》。白詰草や姫昔蓬などの帰化植物は、人と物の移動を象徴する存在である。パンデミックを引き起こすウィルスもまた、いかに地球がネットワークによって緊密に結び付けられているかを可視化する。その下を白いロープが通り、映像作品の手前で広い展示室を斜めに横切るように方向転換、そのまま狭い展示室へと連なっていく。白詰草の向かい側の壁面傍には、床にトランクが置かれている(宮永愛子《スーツケース「海の資」》)。その蓋を開けると、ナフタリンでできた化粧瓶や時計、貝殻や人形が見える。開ける動作と白い光、そして姿が失われていくナフタリンのオブジェは、玉手箱を開けたかのように瞬時に時間が流れていく感覚を、とりわけ目[mé]の映像作品の緩やかな車の流れとの対比で催させる。2つの時計が時間の相対性を強く訴えかける。狭い展示室への角には、コンクリートのブロックや木材(バンコ)とともに置かれた砂袋から姫昔蓬が伸びている。
小展示室の床には絨毯や継ぎ接ぎの布が敷かれ、地球儀(宮永愛子の出品)やミヤギフトシの撮影した川(河川敷)の写真などを載せたテーブルと4脚の椅子が置かれている(地球儀以外は目[mé]の出品)。広い展示室から伸びてきた白いロープはこのテーブルをV字に囲うように、壁面で折り返して向かいの壁面へと向かう。目[mé]の設置した木製の棚には、子供が菓子箱に描いた絵(宮永愛子の出品)、マンゴーの種(杉戸洋の出品)、木製の繰型(中村竜治の出品)、琉球ガラスのグラス(ミヤギフトシの出品)、凹んだペットボトルとレンガ(宮永愛子の出品)、蜂蜜(Nerholの出品)が飾られている。自然(マンゴーの種)と人間(繰形)の両者を、あるいは地下(出土したレンガ)と地上(戦争の絵)や上空(気象情報の絵)を空気(ペットボトル)や水(グラス)を循環していることが示される。

本展は、地下に降りる冒頭から、胎内洞穴であることが明快である。産道のような暗く狭い通路をくぐり抜け新しい自分に生まれ変わるという、胎内巡りを鑑賞者に体験させるものだ。暗さによって対象は目を凝らさなければ見えず、あるいは聴覚のような視覚以外の感覚への依存が高められる。聴覚障害者による世界の描写は、闇の世界を生き抜くためのナヴィゲーションである。それがパンデミックに閉ざされた世界を突破するための方法論となると作家陣は期待したのだ。感覚を研ぎ澄ます体験を通じて自己を更新することで「あたらしい世界」へと接続できるのだと。
また、展示会場を暗闇=夜に支配させることで、会場を出た際に夜明け(=「あたらしい世界」)を体感させるという狙いもあるはずだ。
そもそも「あたらしい」を「新しい」と表記しなかったのも、本来「新し」が「あらたし」であり「あたらし」では無かったという言葉の変遷に結び付けるためであろう。誤用の定着は、無論、世界の一体化(グローバリゼーション)を象徴する帰化植物の存在とパラレルである。