可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『ゲルハルト・リヒター展』

展覧会『ゲルハルト・リヒター展』を鑑賞しての備忘録
東京国立近代美術館にて、2022年6月7日~10月2日。

ゲルハルト・リヒターの個展。138件をシリーズや技法、テーマなどで大まかに分類して展示。《8枚のガラス》を中心に、抽象絵画を設置した空間、絵画《ビルケナウ》とそれを複製するように撮影した写真などから成る空間、灰色の絵画とカラーチャートの絵画を展示する空間、肖像画や風景画などを並べた空間、デジタルプリントの《ストリップ》や写真に基づいた絵画シリーズを展観する空間、そして通路のような空間では、自作絵画を撮影した写真シリーズやスナップショットに着彩した作品、ガラス絵、ドローイングを紹介している。

4点組の絵画《ビルケナウ》[064-067]は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の複製写真[069](《ビルケナウ》に向かって右手の壁に掲示)を忠実に再現した上から、主に黒と白、部分的に赤と緑で塗り込めた作品。向かいには4点の鏡像のように写真複製《ビルケナウ(写真ヴァージョン)》[068](但し、白い十字の線が画面に入れられている)が展示されている。さらにもう1つの壁面に設置された《グレイの鏡》[113]が、《ビルケナウ》とそのイメージソースである写真、複製版の全てを映し出している。

《ビルケナウ》では、当初描かれていたアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の光景が絵の具によって塗り潰されており、収容所の光景は全く見通せない。黒、白、赤、緑の絵の具による画面を眺めて、タールが塗られた木製の小屋の壁に苔が生え、血の飛沫が飛んでいるというような想像はできるが、具体的な形は表わされていない。

 アヒム・ボルヒャルト=ヒュームは、リヒターが自身の娘を描いた《ベティ》において、描かれた人物が灰色のモノクロームの背景(=絵具の壁)を振り返っていることから、ヴァルター・ベンヤミンの「歴史の天使」を思い起こさせると指摘する。ベンヤミンによれば、歴史の天使は過去を振り返って見ようとしているが、嵐によってその眼前に瓦礫が積み上がり過去を遮り、天使自身も未来へと飛ばされてしまう。(略)ベンヤミンによれば、過去は瓦礫の壁に塞がれて見えなくなってしまうが、過去を救い出す手立てはあるという。「過去はある秘められた索引をともなっており、その索引によって過去は救済へと向かう」。《ビルケナウ》では、この作品の名称、あるいは収容所で隠し撮りされた写真の複製が索引となるだろう。このように《ビルケナウ》は、ホロコーストという表象に取り組む作家の個人的な課題とその達成ではない。この抽象絵画は過去の救済を、この作品を見る私たちに付託する。想起せよ、と見る者に迫るのだ。しかし、この想起による過去の救済は問題含みである。というのも救済と見せかけて、私たちは過去からイメージを掠め取り、固定化し、慰めの感傷的な物語をつくり出す危険性を免れえないからだ。ゆえに、これらの絵画の壁にはふたつの役割がある。私たちのまえに立ちはだかり、想起を促す瓦礫としての壁でありながら、一方で私たちの眼差しの暴力からイメージを守る皮膜としての壁でもある。表わしつつ隠す、隠しつつ表わす、この二重性を保持しているのが《ビルケナウ》の特徴であろう。(枡田倫広「ビルケナウ以降―ゲルハルト・リヒターの〈アブストラクト・ペインティング〉以降における後期様式について」枡田倫広・鈴木俊晴監修『ゲルハルト・リヒター』青幻舎/2022年/p.18)

障壁が無ければ対象を見ることは容易である。その手軽さは、対象を見ることと対象を理解することとを安直に結び付ける嫌いがある。現にモティーフが見えていれば、《ビルケナウ》についてあれやこれやと考えることはなかっただろう。塗り潰されることによって、何が「瓦礫の壁に塞がれて」いるのか、また不可視になる事態そのものについても考えざるを得ない。また、容易な視認性は、対象の価値を減じることになりかねない。存在するが秘匿することで対象の聖性の保持が可能となる。
《ビルケナウ(写真ヴァージョン)》は、《ビルケナウ》の複製であり、一種の鏡像である。《ルディ叔父さん》[028]は写真をもとに描いた自作絵画を暈かして撮影した作品であったが、《ビルケナウ(写真ヴァージョン)》のイメージは精密に複製されている。その代わりに画面には白い十字が入れられている。

 考えられるひとつ目の理由としては、単数性と複数性とをめぐる弁証法的な対立を維持することであったのかもしれない。というのも、こに対立はリヒターの重要な作品の多くにおいて、形式的かつ概念的な戦略として機能し、1960年代半ば以降の彼の思考を貫いていたものだからだ。絵画は、本来、唯一無二に一点物であるという特徴を持っていたが、それは増え続けていくという可能性によってつねに脅かされ、複製というものが不可避的に生み出してしまう多数性という問題に直面してきた。《ビルケナウ》をデジタルで複写したふたつ目の動機として考えられるのは、ホロコーストと関係するこの作品が責務として引き受けざるをえない記念碑的な意味合いをもってしまうことと、スペクタクル化された絵画としてフェティッシュ化されてしまうこととの両方に同時に抵抗したいという願望であったのかもしれない。記念碑性とスペタクル化という、この主たるふたつの受容モードこそが、現代文化における記憶想起に関わるあらゆる試みを妨げてしまうからだ。(略)
 それゆえ、次のような疑問が頭に浮かぶかもしれない。こうした複写は、一点物であるという絵画の価値のアレゴリー的な格下げとして解釈されるべきなのか。あるいは絵画から複製へという技術的な置き換えは、これらの絵画の重要性を高めているのだろうか。あたかも記憶を助けるイメージがひとつのものから次々と増殖していくかのように。それとも、次のようにも考えることができるかもしれない。1枚の絵画をデジタルコピーへと展開することは、今日の政治的領域における暴力と野蛮という何度も繰り返されている循環構造を見る者に認識させつつ、過去に思いを馳せるような記憶のイメージ――そしてショアという特異な歴史を表象する記憶のイメージ――を現在そして未来に向き合うことができるような記録へと変容させているのだ、と。以上を踏まえると、《ビルケナウ》のオリジナルの絵画と、その複写物との関係は、死の収容所という遺産を過去のものとして歴史かしようとするものでは決してなく、今日の極端な政治的暴力の状況に力点を向け直しているようだ。
 このように解釈すると、オリジナルと複製からなる《ビルケナウ》というディプティック(2組の作品)は、ホロコーストの表象、理論化、歴史かという3つのさらなる哲学的な問いを探るものとなる。ひとつ目の問いは、現在において、歴史的なトラウマの記憶を想起させる表象を構築しようとするあらゆる試みは、それ自体が不可避的かつ無意識的にスペタクル化されてしまうというプロセスにどの程度まで巻き込まれてしまうのか、ということだ。(略)
 《ビルケナウ》によって取り組まれたふたつ目の理論的な問いは、歴史的、倫理的、美学的要請をめぐる、見るからに解決不可能な葛藤だ。ホロコーストに関するイメージはすべて公表されるべきだと強く訴える歴史家たちがいれば、抽象化することだけが――倫理的、そして美学的な禁止として――歴史の抑圧を無効化し、犠牲者を再び犠牲にするスペタクルを求める鑑賞者の加虐的な欲望を(再)活性化することなく、歴史的表象を惹起することができると主張する歴史家たちもいる。リヒターの《ビルケナウ》は、トラウマの写真的記録と、救済とまではいえないものの、記憶を喚起する絵画的昇華とのあいだにある、この弁証法的緊張をまさに呈示しているのだ。
 (略)
 リヒターの《ビルケナウ》が投げかける3つの目の、そしておそらくもっとも難しい問いは、エンツォ・トラヴェルソのような理論家たちがしきりに論じていたように、ショアはそもそも歴史かされるべきなのか、そしてそれは果たして可能なのか、というものだ。(略)デジタルで同一のイメージを複製し、それゆえ流通性を高めることによって、《ビルケナウ》という作品がもつ比類ない神聖さを覆すリヒターの戦略は、彼がトラヴェルソと同じ立場を胸中していることを示唆している。つまり、彼はナチ・ファシズムの暴力とは、20世紀の人類に対する犯罪のなかでもっとも恐ろしいものではあるが、それをほかから区別し、唯一無二のものとして扱ってはならないと暗に訴えかけているかのようだ。むしろ、ショアを理解するための追悼の仕方が、現在そして近未来のカタストロフを含み込むべく、批判的省察の射程を拡張しなければならないということを、複製による作品の複数化は示唆しているのかもしれない。(ベンジャミン・H.D.ブグロー〔吉田侑李〕「文化の記録、蛮行の記録―ゲルハルト・リヒターの《ビルケナウ》枡田倫広・鈴木俊晴監修『ゲルハルト・リヒター』青幻舎/2022年/p.251-252)

白い十字が入れられていることを別にすれば、デジタル複製の特徴は、その平滑な画面にある。絵具が作る凹凸が失われていることである。そして、何より、オリジナルの下層に存在するイメージが存在しないことである。それは、仏舎利とその代替物、あるいは仏舎利と仏塔との関係に擬えられるだろうか。

 たとえばヨーロッパの古代あるいは中世における聖画像論争は、意外にも、リヒター作品の「もの」と「イメージ」を考えるあたって重要な参照項となるだろう。そこではものとしての偶像がはたして礼拝の対象となるのは許されるのか、そしてまた単なるものではなくなったイメージがむしろ聖なる像として現れうるとしたらそれはdのようにしてなのかが繰り返し議論されてきた。ただものにすぎない絵具が、ただの木が、ただの石が、像となり、信仰の対象となったり、あるいはかえってそのために憎悪の、破壊の対象となることの不思議。現代美術についての議論に中世の聖画像論争をもち出すのはアナクロニズムだと思われるかもしれない。しかし、リヒターはかつて写真を「真実」と、絵画は「真実ではない」「人工的」で「信用されない」ものだとしたが、その両者を掛け合わせた〈フォト・ペインティング〉は、中世の神学者トマス・アクィナスが「イメージに対しては、それが何らかのもの(たとえば彫刻された、あるいは彩色された木)である限りにおいて、いかなる崇敬も示されない。というのおは崇敬は合理的な存在だけになされるべきだからである。したがって、以下のようなことが残る。それが(何らかの)イメージである限りにおいてのみ、イメージに対して崇敬が示される」と記したような、中世ヨーロッパにおいて議論されていたものとイメージの問題系――そのイメージは「信頼できる、全般的な」真正なイメージなのか、それとも私たちを惑わすだけのただのものなのか――をそのまま引き継いでいるとも考えられるだろう。(鈴木俊晴「『絵画は役に立つのです』―リヒター作品における「もの」と「ビルド」、「複数性」と「真実性」をめぐって」枡田倫広・鈴木俊晴監修『ゲルハルト・リヒター』青幻舎/2022年/p.23)

《グレイの鏡》[113]が、《ビルケナウ》とそのイメージソースである写真、複製版の全てを映し出している。鏡を通して見ても、例えば作品に当たる照明の反射によってオリジナルの絵画とデジタル複製との差異を見分けることは可能である。だが両者のの差異も鑑賞者も全てを呑み込む、淀んだ水面のような《グレイの鏡》の鏡像こそ魅惑的である。《グレイの鏡》という暗い沼は、電源を切ったスマートフォンであろう。全てはイメージへと変換される。それは、パンデミックへの疫学的対応が加速させた、全てが情報(0と1と)に置換される世界を映し出す鏡である。何を見て何を想起するのか。夏草や兵どもが夢の跡。