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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『李禹煥』

展覧会『国立新美術館開館15周年記念 李禹煥』を鑑賞しての備忘録
国立新美術館にて、2022年8月10日~11月7日。

1968年から2022年まで59点の作品で構成される、李禹煥の回顧展。
冒頭に設置された蛍光塗料で画面を覆った三連画《風景Ⅰ~Ⅲ》[001-003]を例外として、前半は主に石と鉄を組み合わせた立体作品「関係項」シリーズを、休憩所・屋外展示場の《関係項―アーチ》を挟み、後半は絵画作品を紹介する。とりわけ大きな石が点在する前半は、枯山水の庭を巡るような印象を受ける。

三連画《風景Ⅰ~Ⅲ》[001-003]はピンクやオレンジの蛍光色でキャンヴァスを覆った作品。やはり蛍光色を用いた《第四の構成A・B》[004-005]のメビウスの輪の擬態を併せ見ると、作品に光を放たせ、世界を囲い込ませようとしているようだ。《関係項》[006]の石がガラス板を割って罅を入れて穴を穿とうとしているのも、空虚を抱え込もうとする初期作品[001-006]に共通する性格が窺える。
《関係項 別題 言葉》[013]は座布団に載せられた石と、壁面に当てられたスポットライトで構成されている。初期作品《関係項》[006]との対比で、座布団には石の衝撃を受け容れる余裕が生まれているとともに、壁に当てられた光によって、作品が周囲との関係を結んでいることが明瞭になっている。
《関係項―鏡の道》[052]では、鏡が上に載せられた2つ(複数)の石を受け容れるのみならず、周囲の環境や鑑賞者までも許容する。周囲を砂利で覆うことで「鏡の道」に川のイメージを引き寄せている。なおかつ手前の展示室に設置された、水を円柱型の透明の器に溜めた《関係項―プラスチックボックス》[051](空気・水・土)との対比で、涸れない川すなわち無限を表現していることが分かる。

絵画においても、「点より」や「線より」のシリーズでは画面を埋め尽くしていた点や線のモティーフが、「対話」シリーズでは、モティーフが最小限に配されることで、枯山水の庭のような観を呈するに至る。

 

《関係項―棲処(B)》[049]は展示室の床一面に同じ種類の黒っぽい石を割って敷き詰めた作品。壁に入らない石は壁に立て掛けられたり、積み上げられたりしている。鑑賞者が石の上を歩くと、ほぼ確実に石がズレ、石と石とがぶつかる音がする。

 しかし社会制度の設計を感情に委ねてしまうことには危険がある。共感できない相手に対しては、差別も暴力も、何の歯止めもなくなってしまうからだ。著者は、ある有名な大学の憲法学の教授が言った言葉に衝撃を受けたという。「死刑を科せられなければならない人がやったことは異常ですよ。人間の業ではないですよ」。つまりこの教授は、「そんなことをする人は人間ではない」のだから「この世から排除すべきだ」と言っているのである。
 それは別の見方をすれば、個人の生よりも全体の利益を優先する全体主義の発想だともいえる。バブル崩壊以降の日本では、「身を切る改革」「無駄を削減する」ということが叫ばれ、新自由主義的な風潮のなかで、自己責任が強く問われるようになった。そのなかで、生活保護受給者のような弱者を、「社会に迷惑をかけている」という理由でバッシングする動きが強まった。しかしこの場合の「社会」とは、それを主張する人が恣意的に線引きした「全体」であり、自分と同じような苦労や喜びを共有していない人、つまり共感できない人はそこから排除されている。「社会に迷惑をかけている」は存在を抹殺する言葉である。(伊藤亜紗による、平野啓一郎著『死刑について』の書評。『毎日新聞』2022年10月8日13面)

《関係項―棲処(B)》を通らずに展覧会場の先へ進むことはできない。すなわち、観客が作品の上を歩くことは避けることができず、必ず石を鳴らせてしまうことになる。この作品は恣意的な線引きを許さない社会のメタファーであり、社会に暮らす以上、音を立てる(=社会に迷惑をかける)ことが不可避であることを訴えるようである。