可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『踏み倒すためのアフターケア』

展覧会『踏み倒すためのアフターケア』を鑑賞しての備忘録
アキバタマビ21にて、2022年9月23日~10月23日。

上田哲也、加々見太地、Taka Kono、下大沢駿、平山匠が参加するグループ展。

企画代表でもある下大沢駿の《重たい足》は、本展のキー・ヴィジュアルないし鍵概念を呈示している。それは、アスファルトで舗装された道路を矩形に切り出したような台座の上に設置された、巨大なコンクリート製の灰白色の両足である。右足も左足も脹ら脛より上の表現は無く、それぞれ3本の鉄筋が上に向かって立っている。《重たい足》は、鉄筋コンクリートの巨人ではなく、巨人の足だけを表現した。何故か。おそらくは会場の規模や制作費の問題ではなく、上空からの視線であるとともに不可視の視線、すなわちドローンの視線を具現化(擬人化)するためであろう。

同じく下大沢駿の《Ants on Map》は、都筑中央公園横浜市)の案内板を模した作品の園内地図に沢山の蟻が列を成して動き回る姿を重ね合わせた作品である。動きの速度と不鮮明さとが相俟って蟻の形は判然としない。それが却って人の姿を擬えているように見える。園内地図には縄文時代から古墳時代にかけての複合遺跡である境田貝塚が示され、また周辺を含めた広域地図には弥生時代の環濠集落である大塚・歳勝土遺跡や、中世式場郭の茅ヶ崎城址も徒歩圏内である。鶴見川の支流・早渕川に近い丘陵地帯には原始から人々の営みがあった。その姿を「巨人」は俯瞰する

 セルトー〔引用者註:ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』〕はこの経験を、アイロニックな含意をもって大地からの「解放」として語った。世界貿易センタービルの最上階にいる者は、「街中にあれば、匿名の掟の命ずるがまま、こちらの角を曲がったり、またあちらの角を曲がったりせねばならぬものを、もはや身体はそんな街路にしばりつけられていない」。この「解放」を人類が目指すのは古く、伝説のバベルの塔を語った旧約聖書の時代まで遡れ、中世の画家たちは「いまだかつて存在したこともないような目が見はるかした都市の姿を描いていた。それらの絵画は、都市の上空飛行と、それによってひらけるパノラマを同時に創出していた」。だから「こうしたフィクションが早くも中世に見る者を天の目に変えていた」。やがて、「技術的な手続きのおかげで「遍-視する権力ができあが」る。紛れもなく、世界貿易センタービルはこの権力の象徴だった。
 つまり、この「マンハッタンのへさきに立つ420メートルのタワーは、読む者をつくりだすフィクションをいまも変わらず築きあげて」おり、そのフィクションは「都市の錯綜を読みうるものに変え、変転たえまないその不透明性を動かぬ透明なテクストに変えて」しまう。もちろん、まさにこの「いまも」が続いたのは、2001年9月10日までのことだが、フィクションとしての都市は「理論的な」(すなわち視覚的な)シミュラークル、要するに、実践を忘れ無視してはじめてできあがる一幅の絵」なのだとセルトーは念押ししていた。
 セルトーが論じたように、この「上空からの眼差し」は、「人びとの住む都市の不透明で盲目の動き」を常に捉えそこなことを運命づけられている。なぜならば、そうした「動き」は、「歩く者たち(Wandersmänner)であり、かれら歩行者たちの身体は、自分たちが読めないままに書きつづっている都市という「テクスト」の活字の太さ細さに沿って動いてゆく。こうして歩いている者たちは、見ることのできない空間を利用しているのである」。というのも、「絡みあいのなかでこたえ交わし通じあう道の数々、ひとつひとつの身体がほかのたくさんの身体の徴を刻みながら織りなしてゆく知られざる詩の数々は、およそ読みえないものである」。次章以降の議論を先取りするなら、セルトーがいう「歩く者たち」は、逃げまどう者たちでも、地下に潜る者たちでも、偽装する者たちでもある。それらは「抵抗」という以上に、上空からでは眼差すことのできない見えざる人々の微かな営みなのである。(吉見俊哉『クリティー社会学 空爆論―メディアと戦争』岩波書店/2022年/p.10-12)

《Ants on Map》に登場する「蟻」は、《重たい足》の(足以外)不可視の「巨人」によって眺められた人々――「歩く者たち」であり、逃げまどう者たちでも、地下に潜る者たちでも、偽装する者たちでもある――の姿なのだ。「蟻」が不鮮明に現わされているのは、巨人の視線からでは「眼差すことのできない見えざる人々の微かな営み」を表現するためであった。

幼い頃、愛着を抱いていたねずみを主人公とした物語を作っていた平山匠は、再び「ねずみくんになって、同じ視点に立ち」、(ダニエル・キイス(Daniel Keyes)の小説『アルジャーノンに花束を(Flowers for Algernon)』に登場する動物実験である)「アルジャーノンのようなネズミたちをたすけるため」に「冒険に出る」、《ねずみくんの冒険》という物語とそのジオラマを出展している。作家は小さな存在であるねずみと同化する。なおかつ、ジオラマの形でスケールが縮小される。人間の存在を二重に縮小化することで「巨人」の視線を持ち込んでいると言えよう。

加々見太地は、氷に覆われた急崖を登攀する自らの姿を撮影した写真や断熱材のスタイロフォームなどに、登山道具のアイスアックスやアイゼンを装着した登山靴などを組み合わせた(打ち付けた)作品を展示している。大自然の前で人間の存在の儚さを感じさせる。ここにも自然という「巨人」からの視線がある。但し、登山写真を用いたシリーズ4点は「正露丸」と題されている。正露丸日露戦争開戦前に「征露丸」の名で販売されていた薬品であり、立ちはだかる氷壁ウクライナに侵攻したロシアに見立てていることは疑いない。氷壁に挑む自らの姿を、強大なロシアに抵抗するウクライナに重ねているのであろう。その姿を「自撮り」するのは、現在進行形の戦争の似姿と言える。

 つまり、2022年春、ウクライナでの戦争が示したのは、インターネットが全地球を仮想的に覆い、誰しもがカメラ機能付きのモバイルメディアを保持する時代に浮上しつつある「偏在する眼差し」の逆説的威力である。そもそもドローンは、「上空からの眼差し」とそれを操作する地上の兵士を結びつけていた。兵士は地上の基地に身を置いたまま「上空からの眼差し」を身に着け、地上の敵を抹殺する。攻撃者の身体は完全に分裂しているのだが、この分裂は技術的に媒介されている。これに対し、今日のインターネットと携帯端末の結合は、空爆により地上に転がる死体とグローバルな眼差しを結んでいる。地球上の至るところでその眼差しは、人工衛星が撮影する地上の情景と空爆される人々が撮影する被害の惨状を結び合わせ、グローバルな感覚的公共圏を創出しているかのようだ。これらの眼差しは、どちらも地球を覆う情報通信網に媒介されながら、かつての「上空」と「地上」の二分法を溶解させている。衛星と地上が高精細かつリアルタイムで結ばれているから、地上の眼差しは同時に上空からの眼差しでもあり得る。要するに私たちは、地理空間や地上からの高度と眼差す主体の位置との対応関係が失われ、その結果として上空からの眼差しの超越性が著しく相対化される時代を生きているのである。(吉見俊哉『クリティー社会学 空爆論―メディアと戦争』岩波書店/2022年/p.213)

Taka Konoの《shadow ghoul(6)》は、草生した中に数基の墓石が点在する中、白い服を着た6人の子供たちが、いずれもその長い髪で顔が隠れるように俯いて立っている姿と、それを背景としたサングラスの人物の「自撮り」のような写真である。その左側には、子供の数が1人少ない《shadow ghoul(5)》が並んでいる。作家がベルギーのキュレーターとヴィデオ通話した際、画面越しに銃を向けられてデジタル・コラージュ作品を見せるよう要求されたことをきっかけに、一人ずつ子供が減っていくシリーズを制作したのだという。作品の制作された背景と相俟って、《shadow ghoul(5)》はドローンによる空爆のメタファーのようである。

 なかでも2015年にイギリスで制作された『アイ・イン・ザ・スカイ――世界一安全な戦場』は、英米ケニアの合同軍によるテロリスト空爆を扱い、上空を飛ぶドローン空爆機と、軍が情報をつかんで攻撃の標的としたテロリストたちの間の2万2000フィートの距離を緊迫感をもって描いた。(略)英米軍は、テロリストを追尾するために昆虫サイズのドローン偵察機を駆使するが、テロリストたちはまったくこれに気づかない。少女と街の人々、それに彼女の父親もまったく別の世界を生きている。つまり地上の人々の生きている空間からとてつもなく離れた場所で爆撃が決定され、はるか上空から一瞬で少女の人生は破壊されるのである。映画は、現代の「上空からの眼差し」がすべての人々の日常生活を気づかれない仕方で監視し、必要とあれば地上から数万フィートの上空からミサイルが発射され、すべては一瞬で粉々にされることを描いていた。
 (略)つまり、すでに「眼差し」は、私たちの身体から離脱して上空を飛行するだけでなく、いかなる眼差す者の身体の地理的、物理的な位置とも対応せずに自在に出現しているのである。9.11を契機として一気に広がったドローンによる偵察や爆撃の技術革新と広範な普及は、このような「眼差し」の爆発的な偏在化を実装するものであった。(吉見俊哉『クリティー社会学 空爆論―メディアと戦争』岩波書店/2022年/p.16)

上田哲也の《Backspin》は、樟を用いて制作された、仰向けになって腕と脚を上げる男性像が、背中で回転し、ブレイクダンスのバックスピンをする作品。言わずもがな、バックスピンはドローンのプロペラの提喩である。それが地面に存在するのは、「地理空間や地上からの高度と眼差す主体の位置との対応関係が失われ、その結果として上空からの眼差しの超越性が著しく相対化される時代を生きている」ことを表わすためであろう。

 (略)まず、どれほど衛星が地球全体を見渡し、サイバー空間と結合した偵察機からの視界が人々の日常を覆っても、その眼差された人々は、おそらく今後も、地球上のどこか局所、地上の町や村で暮らし続け、自分たちの土地に愛着を持ち続ける。人々の日々の生活やコミュニティから国家までの組織が丸ごと地球の周回軌道と一体化した仮想空間に蒸発することなどないはずだ。そしてその人々は、自分の村や町を見放すことはないし、自国のナショナリズムも手放さないだろう。ローカリズムナショナリズムが、衛星軌道やサイバー空間の高みに雲散霧消することはないはずだ。(吉見俊哉『クリティー社会学 空爆論―メディアと戦争』岩波書店/2022年/p.212)