可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 三枝愛個展『布置』

展覧会『三枝愛「布置」』を鑑賞しての備忘録
Bambinart Galleryにて、2022年9月28日~10月15日。

三枝愛の個展。

本展のタイトルは、カール・グスタフユング(Carl Gustav Jung)の布置(Konstellation)から採用されている。表題作《布置》(288mm×180mm)は、F0号の絵画の木枠(140mm×180mm)を上下に並べて鎹で接合し、黄麻の布で周囲を囲った作品である。ところで、上代の尺度の1つである咫(あた)は親指と中指とを広げた長さであり、「日本の油画における最小サイズ、0号の長辺と一致する」という。F0号は人物(figure)の身体感覚を基盤とすることを、かつそれを2枚繋げることは演繹的思考を、さらに光を象徴する黄の布で囲い込むことは星座(Konstellation)を、それぞれ象徴する。

展示作品中10点と最も点数の多い「尺寸の地」シリーズは、作品保存用の黄袋に、サイアノタイプやアンソタイプといった日光を用いた古典的写真技法により、絵画用の木枠の影を写した作品群。《尺寸の地-11》(546mm×455mm)はウコンで染色した布にサイアノタイプで木枠を浮かび上がらせたF3号の画面(273mm×220mm)と、半分に切断したM8号の木枠(273mm×227.5mm)とを左右に並べ、かつ下に左右を逆に配置したもう1組を組み合わせて、鎹で繋げた作品。本来、絵画のFサイズは、Mサイズの長辺の半分であったが、日本では尺貫法からメートル法への変更の影響で、その関係が崩れてしまった。《尺寸の地-11》は、Mサイズの木枠がFサイズのサイアノタイプより若干大きいことを示し、両者の関係性の崩壊を浮かび上がらせるとともに、鎹で結合させているのである。

 私は純粋に心理学的な考察から、元型〔引用者註:心全体の中で、個人的に体験に由来しない、集合的無意識の形式群。間接的にしか意識することができない。〕が単に心的性質だけからなるということに疑問を抱くに至ったが、心理学は物理学の成果によってもまた心的なものだけを前提としている点に見直しを迫られているように思われる。つまり物理学は、原子単位の配列の次元では観察者が客観的現実の中にいることが前提とされており、この条件のもとではじめて満足な解明図式を作ることができる、という結論を心理学の前に示してくれた。このことは一方で物理学的な世界像に主観的要因が入りこんでいること、他方では心を解明するためには心と客観的時空連続体との結びつきが是非とも必要であることを意味している。物理的な連続体を思い浮かべることができないならば、物理的連続体が必ずもっているはずの心的な側面も具体的に見えてこない。しかし心と物理的連続体が相当に、もしくは部分的に一致しているという点は理論的にきわめて重要である。なぜならこの一致は、物理的世界と心的世界という一見次元が異なる両者を橋渡しするという意味では強力な単一化であるからである。もちろん橋を架けるといっても目に見える形ではなく、物理学の側では数式によって、心の側では経験から導かれた仮説、すなわち元型によってなされるのである。ただし元型の内容は、たとえそれが存在するとしても、イメージすることはできない。元型は観察したり経験したりする中ではじめて姿を現わす、つまり元型はイメージを配列することによってその存在を明かすのであるが、配列はそのつど無意識的に行われ、それゆえわれわれはそれをいつも後になってはじめて知ることができるのである。元型はイメージの道具立てを取りこんで[使って]いるが、この道具立ては明らかに現象界に由来し、そのために見ることができ、また心的でもある。そのためイメージ内容はまず心的なものとしてのみ認識されかつ理解されるが、このことはわれわれが直接知覚する物理現象の基礎にユークリッド空間を置くのと同じように正当なことである。元型が心的でない側面をもつに違いないということを受け入れるためには、不可解な心的現象を解明することがまずもって必要となる。この結論のきっかけとなったのが共時性現象である。共時性は無意識の動因の活動と結びついており、これまで「テレパシー」などとして理解され、あるいは批判されてきた。しかし懐疑的な態度は間違った理論に対してだけ向けられるべきであり、正当な事実に対しては向けられるべきではない。偏見のない観察者なら事実を否定しないはずである。事実を認めようとしないのはおもに、心がもつとされる超能力すなわち透視力を認めることに対して抵抗があるからである。その種の現象がなぜいくつもの複雑な面をもつかについては、私がこれまで確認できたかぎりでは、時間と空間が心の中では相対的であると仮定すればほとんど完全
に説明がつく。心的な内容が識閾を越える[意識化される]と、その内容は共時的な辺縁現象を起こさなくなる。時間と空間はふだんの絶対的な性格に戻り、意識はその主体性を取り戻して孤立する。このことは物理学でよく知られている「相補性」という概念を使うと非常に簡単に理解できる。無意識内容が意識の中に入りこむと、それは共時的な現われ方はしなくなり、逆に主体が無意識状態の中に移されると(忘我的)共時的現象が起こる。さらに同じような相補的関係性は、医師がよく経験している多くのケースでも観察される。つまり、病的な症状に対応した無意識内容が意識化されるとその症状が消えるのである。周知のように一連の心身現象も、意志の力では起こすことができないが、催眠状態によって、すなわちまさしく意識を制限することによって引き起こすことができる。(C.G.ユング林道義〕『元型論[増補改訂版]』紀伊國屋書店/1999年/p.363-365)

「尺寸の地」シリーズは、ユングの元型の「絵解き」になっている。咫が象徴する主観ないし心と、地球を基盤としたメートル法(元来、北極点から赤道までの1000万分の1)が象徴する物理的な連続体とを、それぞれFサイズとMサイズの絵画と木枠で表わし、鎹によって「一見次元が異なる両者を橋渡し」している。鎹こそ元型の働きであり、作品は「イメージを配列することによってその存在を明か」された元型のイメージである。

 (略)「神の母」が物質性のもつすべての不可欠な属性から解放されたの〔引用者註:聖母マリアの被昇天〕とちょうど反対に、物質は根底的に脱霊魂化されてしまった。ところが、ちょうどこのときに物理学が急速に認識しつつあるところによれば、物質は「脱物質化」されてしまうどころか、物質独自の性質を元来持っているものと認められ、またその性質と心との関係を明らかにすることが焦眉の問題とされているのである。自然科学の暴力的な発達は挿し穂は精神を性急に王座から引きずりおろし、同様に無思慮にも物質を神の座につけたが、今日2つの世界観のあいだに口を開けた巨大な裂け目に架橋しようとしているのも、同じ科学的な認識衝動である。心理学が目を付けているのは、いま述べたような発展をある意味で先取りしているようなシンボルが、《聖母被昇天》の教義の中に含まれているということである。心理学は大地や物質との関係を、母元型の不可欠の属性と考えている。とすると、そうした母元型の性質をもつ人物像が天国に、つまり精神の国に受け入れられたと宣言されたということは、大地と天国との、つまりは物質と精神との、結合が暗示されているということになろう。(C.G.ユング林道義〕『元型論[増補改訂版]』紀伊國屋書店/1999年/p.136-137)

《土の声をきくこと》(902mm×1200mm)は、灰色の上半分と、それよりも白味を帯びた灰色の下半分との間に、裂け目のような線が横断した絵画作品である。この作品も、大地の地母神のイメージを喚起するとともに、ユングが言うところの物質と精神との結合を暗示するものかもしれない。

 錬金術は対立の結合を樹のシンボルによって表わした。これを考えてみれば次のことは驚くにあたらない。今日の人間は自分の世界を我が家とは感じられず、自分の存在の基盤はもはや存在しない過去にも、まだ存在しない未来にも置くことができないが、この人々の無意識は今やふたたび、この世に根を張り天頂にまで伸びた世界樹――これは人間でもある――、というシンボルに立ち返っているのである。シンボルの歴史はいつでも樹を、普遍にして永遠なるものへの道として、成長として、描いてきた。不変にして永遠なるものは対立の結合によって生まれるが、また逆にすでに存在している永遠の存在によって結合が可能になるのである。人間はいたずらに自分の実存を求め、そこから哲学を作り出してきたが、シンボルを本当に体験することによってのみ、自分をよそ者とは感じないですむ世界に戻ることができる、と私には思われる。(C.G.ユング林道義〕『元型論[増補改訂版]』紀伊國屋書店/1999年/p.138)

ともにF8号の縦長(455mm×380mm)と横長(380mm×455mm)の2点の絵画《木の墓を掘る》はともに、暗い穴に木を横たえる。ユングの上記引用を援用すれば、宇宙との繋がりを感じられなくなった矮小な人間の存在を、木(世界樹)の喪失によって表現するものであり、それと同時に、木の再生を願う葬送儀礼をこそ描き出すものであろう。