可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 細谷巖個展『突き抜ける気配』

展覧会『ギンザ・グラフィック・ギャラリー第390回企画展 細谷巖 突き抜ける気配』を鑑賞しての備忘録
ギンザ・グラフィック・ギャラリーにて、2022年9月5日~10月24日。

アートディレクター、グラフィックデザイナーの細谷巖の作品を紹介。
1階会場の受付近くに設置された1点のオブジェ《映像を持つ人》(1988)を除き、1階・地下1階の両展示室ともに壁面のみの展示となっている。

ヤマハのオートバイYamaha250のポスター(1961)は、右上の二人乗りのオートバイが真下に向かって直滑降するような縦位置の写真。白色破線と黄色実線のセンターラインが効果線となって下向きの力を発揮している。左下に3段に組んだ"Yamaha250"、"Model YDS2"、"Sprts Type"の明瞭で太い文字が、写真のアレを際立たせ、画面に疾走感を生んでいる。

 二人〔引用者註:細谷巖とマックス・フーバー〕に共通することは幾つかあるが、その中の一つは、我々が見慣れている、へばり着いて離れない、ありきたりな重力ある世界からの解放を目指し、浮遊感を強調するだけでなく、運動体の瞬間さえも提示して見せてくれ、我々をわくわくさせてくれること。
 重力からの解放を目指した作品は、〈ヤマハオートバイポスター〉(1961年/26歳)が好材料となる。その作品について、細谷が、「写真が平凡でつまらないものだったために、原稿〆切に追われ、再撮影もできずせっぱつまり、いろいろ考えた結果写真を90度倒してまとめた」〔引用者註:『イメージの翼・細谷巖アートディレクション中央公論社/1974年〕と書いていた。実はそのことこそ、写真を90度回転して重力を変換した世界を提示することだったのである。〔会場に掲げられた本展監修者・矢萩喜從郎の文章「観る者の心を射抜く、既存の皮膜を突き破る力」より〕

オートバイの2人が死地へ向かう興奮を味わう姿は、文字通り"deadline"(〆切)に臨んだ作家の「写真が平凡でつまらないものだったため」、「再撮影もできずせっぱつまり、いろいろ考えた結果」の窮余の策であったというのが面白い。そこにはブリコラージュと類比の関係が認められる。

 ブリコラージュ(bricolage)はフランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースの著書『野生の思考』で有名になった言葉である。ブリコラージュは、辞書でひくと①素人仕事、大工仕事、②やっつけ仕事、③手間仕事とあるように、「あらゆる種類の手間仕事をして生計を立てること、応急につくりかえたり、修繕したりすること」である。ブリコレ(bricoler)という動詞は、古くは、球技や馬術に用いられ、ボールがはねかえるとか馬が障害物をさけて直線からそれるというような、非本来的な偶発運動を指した。これらをまとめるとブリコラージュとは、ありあわせの道具材料を用いて、その場その場で本来予定されていなかったものを偶然生み出すことをこそさす。
 (略)
 ブリコラージュする人がブリコルール(bricoleur)である。彼は、多種多様な仕事をすることができる。しかしながら、エンジニアとはちがって、仕事の一つ一つについてその計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ手が下せぬというようなことはない。彼はそのとのそのときの限られた道具と材料の集合で何とかしなくてはならないし、しかも、もちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。なぜなら「もちあわせ」あるいは「ありあわせ」とは、いかなる計画にも無関係に偶然の結果手元に届いたものだからである。したがって器用人(ブリコルール)の使うものの集合は、ある一つの計画によって定義されるものではない。
 ブリコルールの用いる資材集合は、単に資材性あるいは道具として役に立つという潜在的有用性によってのみ規定される。ブリコルールは、資材性つまり「まだ何かの役に立つ」という潜在的有用性を「もの」の中に見出すのだが、それは、「もの」(素材)が、明確に限定された用途のためにとっておかれたのではなく、同じようにとっておかれた他の「もn」や周囲の環境との具体的な関係の中で、あらたな役割が発見されるということである。そしてあらたな役割が見出されるためには、細かな点に至るまで「もの」の特徴に気づいていることが大切である。それを可能にするのが、ブリコルールのあくなき知的探究心である。それが具体の科学、野生の思考なのである。
 ここで、これまでの人類学が見落としがちだったが、注意しなくてはならないことが二つある。第一に、ブリコルールは主体性を発揮してはいないこと、第二に、ブリコラージュは、人間的営みに限定されているわけではなく、既に生物の進化のなかに見出されていることである。
 ブリコラージュは、利用する物・資材を点検し、それまでとは異なる有用性を見出し転用することである。それは物や資材がそれまでとは異なる相貌をあらわすように働きかけることであり、そこには、物や資材との間に意識されざる「駆け引き」が試みられている。駆け引きはブリコルールの意のままになるとは限らない。したがって、自分たちの利益にかなうよう、自分たちの都合のよいように、社会の中の支配的要素を配列し直しあらたな意味をそれらに賦与しようとする主体がブリコルールの本質だとは言えないのである。(出口顕『今日のブリコラージュ」奥野克己・石倉敏明『Lexicon 現代人類学』以文社/2018年/p.30-31)

出口顕によれば、「ブリコルールは主体性を発揮してはいない」という。その意味でも細谷巖はブリコルールなのかもしれない。というのも、本展では細谷巖の《Variation for SILENCE》(1967)のイメージが繰り返し紹介される(建物の壁面、1階のオブジェ《映像を持つ人》、地下1階の《Variation for SILENCE》)。海岸に立ちボードを顔の前に掲げる人が、ボードの位置に背景の雲の出た空がそのまま表わされていることで、その部分だけ消去されてしまったように見える写真である。頭部の消去は「主体性を発揮してはいない」ことを象徴しているように見えるのだ。