可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 中塚文菜個展『生活と反復』

展覧会『中塚文菜「生活と反復」』を鑑賞しての備忘録
Room_412にて、2022年10月19日~30日。

いずれも「生活と反復」を題名に冠した3作品で構成される、中塚文菜の個展。

会場に入ってのすぐの空間の床に赤い点の濃淡で構成された《生活と反復》がある。5×7枚分のタイルそれぞれに、薬のカプセル容器のように半分だけ赤い絵具で着彩した米が4段階の多寡で並べられている。1粒1粒は固定されず床に置かれたままである。1番米粒が多く置かれ赤みが最も濃い1枚のタイルがあり、その周囲を囲む8枚、その8枚の3辺をコの字型に囲む11枚、外周のやはりコの字型の15枚と、外側のグループに向かって米粒の分量が減り、赤みが薄くなっている。
絵具の塗られた米によって構成される幾何学的な模様は、抽象絵画が支持体である画布(及びそれを貼る木枠)から脱落し、あるいは壁から90度床に倒れた姿と解される。剛体の存在論から流体の存在論へとパースペクティヴの転換を図り、固定化・恒久化から抜け出そうとしているようだ。

 現在のフェミニズム思想の草分けとして知られるリュス・イリガライは、ハイデガーの哲学を批判した『空気の忘却:マルチン・ハイデガーにおける』という著作のなかで、ハイデガーを含めて、西洋哲学は、地水火風の四元素のうち、土・地に特権的な地位を与え、地の剛体性を基本メタファーとした存在論を形成してきたと指摘する。たとえば、あらゆる物体は不変の粒子からなると考える原子論は、いわば砂粒の剛体論である。個人の固定的なアイデンティティーを強調する実存哲学も、人間のあり方を堅い物質であるかのように捉えている。男性の存在論は、流動的な存在、とくに空気をもっとも無視する。空気は、形がなく、境界がなく、組み立てることができない。男性の存在論に規定にそぐわない存在だからである。イリガライの表現は移動する存在であり、「流体」である。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.103)

また、精米された白い米粒は剛体であり男性を象徴するとすれば、それに塗られる赤い絵具は血液であり女性を象徴するであろう。近時指摘されるところの絵画を初めとする美術制度における男性支配に対し、女性の存在を可視化している。

受付(?)脇の通路を抜けた空間には、金属製の網目の屑籠に10mの綿糸を外に糸を垂らしたものと、内側に糸を垂らしたものの1組の立体作品《生活と反復》が設置されている。両者を陰陽として男女の形象化を見ることは容易である。両性の対等な存在が表わされていると言える。あるいは低気圧(上昇気流)と高気圧(下降気流)のメタファーと捉えることも可能であろう。そこにはやはり世界を固定化したものとして捉えるのではなく、運動体として理解しようとする意図が窺える。

 私たちの住んでいるのが、海洋惑星であるとすれな、剛体は流体の一様体にすぎない。私たちの存在自身がウェザー・ワールドの一部であるし、大きな大気と接している小さな海でもある。しかし剛体の存在論を奉じる男性たちは、空気や水を土に変えることができるという幻想にしがみついてきた。
 境界ということに関していえば、剛体の存在論は、境界が明確な対象をあらゆる存在のモデルとすることによって、テリトリーや所有の境界を確定し、その囲い込んだ場所を利用するという発想を生む。他方で、水と空気の存在論は、境界が明確ではなく浸潤し合う存在をモデルとすることで、世界を運動体として理解し、その運動を移動や運搬に利用するという発想を生む。移動して棲むことは動物の本質であり、固定的な家に住むことに先行する。しかし、もしこの惑星の基本様態が変転の止むことのないウェザー・ワールドであるなら、私たちは水と空気の存在論を採用しなければならない。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.119)

網目の屑籠の作品が設置されている空間の角にある、床の間のように仕切られた場所の天井からは、毛玉を紡いで作られた糸が垂らされている。これもまた《生活と反復》と題された作品である。
天井から垂らされた糸を眺めるとき、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を想起するだろうか。極楽の御釈迦様が地獄の血の池にいる犍陀多に垂らしてやった蜘蛛の糸である。その時、紅白米の作品は、血の池として姿を現わすかもしれない。

 (略)レジリエンスは、もともとは物性科学のなかで物質が元の形状に戻る「弾性」のことを意味する。60年代になると生態学自然保護運動の文脈で用いられるようになった。そこでは、生態系が変動と変化に対して自己を維持する過程という意味で使われた。しかし、ここで言う「自己の維持」とは単なる物理的な弾力のことではなく、環境の変化に対して動的に応じていく適応能力のことである。
 レジリエンスは、回復力(復元力)、あるいは、サステナビリティと類似の意味合いをもつが、そこにある微妙な意味の違いに注目しなければならない。たとえば、回復とはあるベースラインや基準に戻ることを意味するが、レジリエンスでは、かならずしも固定的な原型が想定されていない。絶えず変化する環境に合わせて流動的に自らの姿を変更しつつ、それでも目的を達成するのがレジリエンスである。レジリエンスは、均衡状態に到達するための性質ではなく、発展成長する動的過程を促進するための性質である。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.204)

作家は救済を待たない。自ら在り合わせの毛玉で自ら糸を紡ぐ。不格好な糸は「絶えず変化する環境に合わせて流動的に自らの姿を変更しつつ、それでも目的を達成する」レジリエンスの象徴ではなかろうか。ウェザー・ワールドをブリコラージュによって生き延びるのだ。