可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 浅葉雅子個展(2022)

展覧会『浅葉雅子展』を鑑賞しての備忘録
コバヤシ画廊にて、2022年10月24日~29日。

女性の肖像と春画を組み合わせた絵画6点で構成される、浅葉雅子の個展。なお、事務室に小品10点が展示されている。

《On an Armchair》(1570mm×1810mm)は、1人掛けの赤いソファに、両脚を抱えて丸くなって横向きに座る女性を描く作品。女性の目は前髪に隠れ、鼻はぼかされるが、口紅が食み出した口だけははっきりと表わされている。牡丹と浮世絵の男女の柄の長袖のレオタード(あるいはボディストッキング)を身に付け、片方のアームに背を凭せ掛け、反対側のアームに足を載せ、両脚を両手で抱えて丸まった姿勢を取る。背もたれには菊模様の布が掛けられている。画面の下半分、赤いソファの座面より下の部分に、仰向けの女性に覆い被さる男の春画のイメージを輪郭線で描き重ねている。

《Article 24》(1167mm×910mm)は、唐草模様の赤いスリップ(?)を身につけて立つ女性の腰から下を描く作品。足下には3つのトマトが転がり、ターコイズのリボンが女性の裸足を取り巻くよう落ちている。奥には台の上にパキラ(?)の鉢植えがあり、放射状に伸びる葉の緑が全体に赤い画面に映える。女性の前に広がる空間に居茶臼(?)でまぐわう男女の浮世絵が重ねられ、2人が纏う衣服の線が女性の足下に流水のイメージを形作っている。

Ribbon》(1124mm×1455mm)は、梅と浮世絵の男女の柄のスリップ(?)を着た2人の女性が並んで腰掛ける姿を正面から描いた作品。腕を含め、胸から上の部分は画面の上端で切れて見えない。赤黒い背景の中、並んで座る2人の衣装が梅と浮世絵の男女の姿を介して接続し、一体化するように表わされている。2人の足下には穴が開いており、そこから出ているターコイズのリボンが2人それぞれの足首に纏わり付いている。互いに相手の身体に腕を回して口付けする男女の春画が穴の周囲に2つ重ねられている。

《In a Blanket》(803mm×1303mm)の横長の画面の上側には、紐の柄の赤いブランケットに包まれた女性が横たわる姿が描かれている。右側の両脚、左側に覗く両手ははっきり描かれているが、黒い髪の毛で覆われた頭部は黒い絵具が垂れて判然としない。座位で交合する春画のイメージが女性に重ねられている。他の作品でも見られる、色紙のような矩形のイメージが画面に散らされているのが、本作品では数もより多く、よりはっきりと確認できる。

正方形の画面の《Cracker》(1167mm×1167mm)には、波の文様をあしらったTシャツを身につけた女性が真上に顔を向け、その口から赤、紫、浅葱のリボンや紙吹雪が飛び出す様子が描かれる。他の作品と異なり女性の顔がはっきり表現されている一方、女性に重ねられる春画の男女のイメージは、それと分かる程度にまで描線が絞り込まれている。

《a break》(1167mm×1167mm)には、恰も掛けられているように、女性の上半身が塀を越えて手前に垂下がっている姿が描かれる。菊の柄の黄色い服を纏った女性は、腕と黒い髪とを下に垂らし、首や左腕にはターコイズのリボンが絡みついている。塀の上から蔓を垂らすシュガーバイン(?)の鉢は、女性と取り合わされているようだ。本作品でも春画のイメージが重ねられているが、他の作品と異なり、女性の顔が詳細に表わされ、とりわけ眉根を寄せ、目力を発揮する目と、食いしばる歯の表現が印象的である。また、垂下がる女性の反対側に表わされた春画の女性の足首は男に摑まれ、足指は反り返っている。

《Article 24》の画題は、家族生活における個人の尊厳と両性の平等とを規定した日本国憲法第24条を指していると解して間違いあるまい。室内に佇む女性の身に付ける赤いスリップの唐草模様は、繁栄豊饒の印である(伊藤俊治『唐草抄 装飾文様生命誌』牛若丸/2005年/p.36参照)。家庭において労働力の再生産を義務づけられていることを象徴する。もっとも、室内には男性の姿はない。重ねられた春画の交合する男女のイメージによって、男性の不在が強調される(それは、《On an Armchair》、《In a Blanket》、《Cracker》、《a break》においても同様である。なお、《Ribbon》では2人の女性を描くが、やはり男性の姿はない)。床の上に落ちたトマトは食事を、ターコイズのリボンの象徴する流水は洗濯を(川へ洗濯にという昔噺の語りを想起せよ)、観葉植物は育児をそれぞれ象徴し、それらが女性だけに残されているのである。画題が示す男女平等の理念を揶揄するものである。なお、セックスが春画により表わされるのは、「夫婦の営み」が過去のものとなっていることを示すのであろう。
同様に、《On an Armchair》の女性の身体にピッタリと張り付くレオタードの浮世絵の男女の絵柄、あるいは《In a Blanket》の女性を覆うブランケットの紐の文様は、女性を縛り付ける異性愛その他の拘束(社会規範)を象徴するものであろう。

 こうした中、アメリカのセクシュアルマイノリティのコミュニティでは、『アナと雪の女王』は同性愛や無性愛(アセクシュアリティ)、ジェンダーアイデンティティの物語として受け取られました。私も初めて映画を見た時、エルサはディズニープリンセスとしてはかなり「ゲイ」なヒロインだと思いました。まず、エルサは作中で一切、異性愛とかかわりません。プリンセスなのに求婚者すらいませんし、作中では男性との恋愛に一切興味を示しません。アナが男の子にのぼせ上がっていることについては冷めたコメントをしていますし、最後は異性との恋愛なしに家族愛や友愛だけで幸せで満ち足りた状態になります。アナが恋をしたハンス王子が突然デートDV男に変身するという、一見突拍子もないように見えて十代の若者にとってはひょっとしたらかなりリアルなのかもしれない展開も含めて、この映画は異性愛に対する幻想を打ち砕いているところがあります。(北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』書肆侃侃房/2019年/p.134)

ディズニープリンセスでさえ異性愛の軛から逃れているのである。
ところで、現在放映中のテレビドラマ『エルピス―希望、あるいは災い―』(脚本:渡辺あや)では、主人公である報道キャスターの浅川恵那(長澤まさみ)は、男性記者とのスキャンダル発覚で報道番組のレギュラー出演を失う。それは、女子アナウンサーとして、あらゆることを「常識」として受け容れさせられてきたことに堪えられなくなり壊れてしまったことを象徴している。浅川が頻繁に吐き気を催すのは、受け容れがたい事実であり、食べられずひたすら水を飲むのは咀嚼する(=考える)力を失ったことを象徴している。
《Cracker》では、女性がクラッカーのように、口からリボンを吹き出している。リボンは女性に対する軛であり、それを受け容れられず吐き出すのである。

 拾水〔引用者註:下河辺拾水〕(その他の多くの画家)は木版という素材に固有の特徴を巧く使って身体をあるやり方でコード化し、見る側もそういうように読んでいく。差異をつくり出す第二次性徴はない。
 ただ生殖器のみ。あが、そこでさえ性器同士、無碍に重なり合っていずれがいずれの人間のものとも区別つかない。恥毛もこの二つの身体の一体感をもりあげる。春画では(西欧のポルノグラフィーとはちがって)ヘアの量が男女同じくらいである。
 絵を見る者はほとんど性的にはちがいのない2個の全体をまず目に入れる。しかしそれでおしまいなのではなく、絵では現に分節化(segmentation)が起きている。男女のペアは腕の部分と脚の部分とで互いを押えており、女は男の首に腕を回し、男は半身を持ちあげ、手は相手の胸部を挟む位置においている。互いの脚部はすねの所でからみ合っている。いわゆる「四手」の体位である。
 2つの身体は、はっきり3つの部分になっている。頭、胴部(その過半が性器だ)、そしてすね部分。これら3つの単位は腕と腿の所で分節されている。2つの身体が一体になって性行為に耽る時、互いに相手を一種デコンストラクト(脱構築)しているといた風情だ。
 カップリング(性交)によって双方とも自らのインテグリティ(自律性)を失う。それらの身体は1個の全体で現にあるが、およそ解剖的ではない分節の仕方で分けられる。2人の愛の抱擁の結果そうなるのであって、身体そのものの皺や曲線に基づくものではない。
 (略)
 絵を見る人は、これから見てセックスというのは身体を引き継ぎながら、身体を文字通り再構築する何かなのだということを直観するにちがいない。身体が元々持っていた分節はセックスの行為によって新しい線にとって代わられるが、この新しい線は当事者の一方からもう一方へと双方向的にたどられる。
 この時、カップルは相手に「入れあげて(give oneself)」いる、というか文字通り相手に「入れ」ることで自分自身を「あげて」いるわけだ。人間2人を目にしているというよりは2人の人間に共有された3つの分節部分の複合体を見ているというべきだ。
 着衣の場合にも、この個を脱構築してからそれを相手と融合させていくこの同じ傾向が見られる。衣服が持ち込まれるのはただ単に意匠のパターンを見せびらかしたいとか、デザイナーや彫り師の元締めとしての腕に感心してもらいたいからというのではなく、それが身体を分節化し、しかる後にカップルの区別がつかない融合に持っていきたいからということもある。その下にどんな身体的形態も認めることができない大きな布は、我々は別々の2人の人間を見ているのだという感じを消し去る。
 たしかに頭は2つあり、性器も2人分あり、時には手足も2人分あるのだが、身体が2つとは見えないのである。春画にこの例は多い。というよりセックス描写の常道とさえ言えるのである。(タイモン・スクリーチ高山宏〕『春画講談社講談社選書メチエ〕/1998年/p.87-79)

作家が春画を取り上げるのは、「2つの身体が一体になって性行為に耽る時、互いに相手を一種デコンストラクト(脱構築)」するからではないか。「身体が元々持っていた分節はセックスの行為によって新しい線にとって代わられるが、この新しい線は当事者の一方からもう一方へと双方向的にたどられる」、何より、その双方向性に期待をかけているように思われるのである。憲法第24条には「相互の協力により」と記されているのだから。