可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 杉本博司個展『OPERA HOUSE』

展覧会『杉本博司個展「OPERA HOUSE」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー小柳にて、2022年9月3日~11月6日。

映画の上映開始から終了まで露光し続けて撮影し、暗い映画館のスクリーンが白く発光する姿を捉えた写真「劇場」シリーズ。その舞台となったアメリカの映画館は、ヨーロッパのオペラ劇場をモデルに設計された。本展では、イタリアとフランスにあるオペラ劇場の舞台で映画を上映し、その間露光し続けて撮影された写真「オペラ劇場」シリーズが10点紹介される。例えば、シエナのリノヴァーティ劇場(Teatro dei Rinnovati)では映画『終着駅(Stazione Termini)』(1953)を、シエナのロッツィ劇場(Teatro dei Rozzi)では映画『旅情(Summertime)』(1955)を、マントヴァの学術劇場(Teatro Scientifico del Bibiena)では映画『青春群像(I Vitelloni)』(1953)を、ファエンツァのマシーニ市立劇場(Teatro comunale Masini)では、『カビリアの夜(Le Notti di Cabiria)』(1957)を、ボローニャのヴィラ・マッツァコラーティ(Villa Mazzacorati)では『白夜(Le notti bianche)』(1957)を、それぞれ上映して撮影している。

 バロック的スペクタクルの時代に、劇場は、プロセニアムによって確実に分断されたステージとオーディトリウムという、2つの空間的構成を定着させたが、そのときプロセニアムの向うにある舞台は、完全に視覚的イリュージョンになっていった。ジャン・ルーセルはバロックの宮廷バレエとオペラTについて、返信、移り気、変装、死や動く水などを主題化しながら、「異様な雰囲気、来る得る夢、ばらばらな形象」のたちあらわれる「不思議な世界」が、視覚の絶えまない戯れにほかならなかったことを、次のように繰り返し指摘している。
 「あらゆるものが形を変え、運動をはじめる。劇的驚異に、視覚の変化に、仕掛けの威力に、必要以上に敏感なその時代のひとびとの眼には、こういう見せ物こそ美として映ったのである。」
 「その脚本にしたところで、装飾や音楽や劇の所作を効果的に支えるために手を加えているにすぎない。事実はただ、いずれも動きと豪華華麗をねらい、すべては視覚の満足のためのものである。」
 実際にはそれらの舞台の演出家たちは、次々と目まぐるしく場面をかえる仕掛けを考案し、最大限に活用した。何重にも垂れさがり、とりかえられる背景、役者を上から登場させるための装置などのために、舞台の上方や後方に大きな空間をとることが余儀なくされたくらいである。天使が空からあらわれ、歌い、踊り、また空へ舞いあがるとか、一瞬のうちに風景が変容するとかは、この時代の舞台ではごく当たり前のことであった。この機械仕掛けの魔術の雰囲気は、レオナルドの装置で知られる舞台などにもあった。やがて舞台は完全に特殊な技倆をもった専門家によってつくられるようになる。この専門家とは、水のたえない噴水などの機械的なトリックを考える技術家であると同時に、ほんらいは極度にそフィスティケートされた遠近法を駆使する画家たちであった。その代表的なものが、ハプスブルク家に仕え、舞台装置や室内装飾に腕を振ったガリ=ビビエナ一族であった。遠近法を用いながら舞台上に空間の多様性をもたらすべく、舞台中央の建物を45度の角度から描いて両側にそれぞれ奥行きのある空間をつくる工夫をしたのも彼らであった。(多木浩二『眼の隠喩 視線の現象学筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2008年/p.90-92)

「オペラ劇場」シリーズにおいて、舞台で映画を上映することで、舞台が後に映画によって実現される「完全に視覚的イリュージョンになっていった」ことを示している。映画は、舞台がかつて目指したように、「すべては視覚の満足のため」に、「次々と目まぐるしく場面をかえ」て見せるものだからである。

 このような傾向は劇場の外にもひろがっていた。教会の天井画(カドラトゥーラ)は天に抜けるトロンプ・ルイユ(だまし絵)になり、そこには劇場と同様に天使たちが舞っていた。サン・ピエトロ寺院の内陣のベルニーニの彫刻は劇場的スペクタクルの凝結であり、雲や光芒などが物質化していた。ボルロミーニの建築は変幻自在な夢か、水面のたわむれを想わせる精妙な曲面のたわむれからできていた。ジャン・ルー背はいまや世界が劇場に化そうとしていた、と指摘するが、実際、視覚的イメージと実在世界との逆転があらわれていた。遠近法の巧者たちは建築をグラフィック・アートに変化させていた。絵をとおして想像的なものがあらわれ、建てられるに先立って建築は描かれて完成してしまうのである。こうして遠近法がもともとは視覚を理性的に体系化しながら、この体系的空間を通じてもっとも非理性的な世界をつぎつぎに産みだしていくことこそ、バロックの経験のひとつの側面、もっとも魅惑的な側面であったように思われる。どんなに荒唐無稽であろうと、その混乱はひとつの方法への異常な固執からうまれたものである。それは劇場における舞台、プロセニアム、観客席の基本的な空間配置を変えなかった。創造力のなかでは世界を裏返しにしようとしながら、劇場の構成すなわち劇的なものと見るものとの関係は変化させなかったのである。(多木浩二『眼の隠喩 視線の現象学筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2008年/p.92-94)

「オペラ劇場」シリーズにおいて舞台で上映された映画は、長時間露光によって、客席を照らす照明となっている。「劇場における舞台、プロセニアム、観客席の基本的な空間配置を変えなかった」こと、「すなわち劇的なものと見るものとの関係は変化させな」いことを照らし出す。観客は安心して荒唐無稽な世界に浸ることができるのである。
ところで、作家は、演劇が人類の歴史とともに古く、上演された神話が社会集団の結束を高めるに捏造され、その繰り返しの上演によって信憑性を高めたことを指摘する。上演が繰り返されるのは、記憶の伝承のためでもあろう。
白い光と化した映画は、劇場自体をも照らし出す。ボローニャのヴィラ・マッツァコラーティの闇に浮かぶカリアティードがお誂え向きに擬人化してくれているが、劇場もまた舞台と観客とを見詰めてきたのだ。ちょうど映画『アフラー・ヤン(After Yang)』(2022)において、アンドロイドと樹木とのアナロジーによって、世界を見詰めるメモリー(記憶装置)として樹木を描き出していたように、歴史ある劇場自体がメモリー(記憶装置)であることが浮き彫りになるのである。