可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 柴田樹里個展『苦楚』

展覧会『柴田樹里個展『苦楚(kuso)』を鑑賞しての備忘録
みうらじろうギャラリーbisにて、2022年10月29日~11月13日。

絵画5点で構成される、柴田樹里の個展。

《忘却の残像と、夢にみた夏の花》(473mm×273mm)は、黄味がかった褐色の背景に、額から鼻筋にかけての白さが際立つ女性の血の気の無い顔を浮かび上がらせた作品。目は半開きで、開かれた口からは黒い舌が覗く、虚ろな表情をしている。仮に歌舞伎劇『東海道四谷怪談』で毒殺されたお岩の顔が秋の精霊会に盆提灯の中から姿を表わす場面を表現した葛飾北斎《百物語 お岩さん》を人が演じたら、このような姿になるだろうかという風情。右頬の下あたりに黄色い花らしきもの、左頬の傍には尾花のような白い線が細く描き入れられ、また青い滴りが顔やその周囲に表されているのも、北斎作品の秋草や立ち上る煙(?)の類比となっている。首の周囲に立ち籠める黒・赤・青の靄が妖異な印象を生む一方、画面上部に広がる黄味がかった褐色の模糊とした背景は茫漠な虚無を呼び起こす。
《終焉を夢みて》(530mm×652mm)は闇の中で風車を手にしゃがみ込んだ女性を描いた作品。顎ラインボブの髪が左頬を覆い、水平に切り揃えた前髪には緑のメッシュが入っている。ラメの入った赤みの強いアイシャドウで強調された涙袋は、隈や暗い口紅と、何より前髪の緑とコントラストを成す。キャミソールは背中から肩・腕にかけて肌を露出させつつ、筋肉の隆起が逞しさを見せる。左肩から掛けた赤地に青い菊の柄のカバンと、膝頭に覗く青地にイチゴのタイツとの対照は、色味のみならず、彼女の成熟の中に幼さが残ることを示している。手にした紺と朱の風車が回っている。彼女の右側から画面中央奥へと向かっては、地面に挿された色取り取りの風車が点々と続き、燈火のように輝いている。終焉はかなり遠く、その姿を捉えることはできない。
《貴女の身代わりに依存する》(910mm×727mm)は、薄暗い部屋のベッドでぬいぐるみを抱えて座る女性を描いた作品。緑色の髪の女性はしゃがんで大きな白いクマのぬいぐるみを右手で抱き締めている。ぬいぐるみの顔からは死体のような女性の顔――青白く目を瞑っている――が覗いている。顔の周囲(ぬいぐるみの上)に置かれた4輪の大きな白い百合の花が、柩の中の遺体のイメージを呼び起こす。ぬいぐるみを抱える右手には赤い糸が握られていて、赤い糸は彼女の足に垂れかかっているが、それは途中で断ち切れてしまっている。部屋の壁はクロード・モネ(Claude Monet)が晩年に描いた睡蓮と水面とが渾然一体となった絵画を思わせる。そして、その「水面」を背景に横たわる「ぬいぐるみ」に、ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)の《オフィーリア(Ophelia)》を連想することも不可能ではあるまい。悲恋を描く作品である。
《愛しい棘》(652mm×530mm)は、暗闇の中、柱サボテンを抱き締める女性の肖像画。画面右側に女性の背丈より高く伸びて見切れている柱サボテンがあり、赤い髪の女性がそれに頭を凭せ掛け、両腕で抱き締めている。女性は黒い衣装を身に付けているためにほとんど闇に溶けている。そのために、服の3個所に穴が空き、棘が刺さり化膿した皮膚の露出が鮮烈な印象を鑑賞者に与える。傷口の1つからはサボテンの花が咲いている。闇には1筋の白い流星が見えるが、それは精子に他ならない。柱サボテンは男根であり、男性である。傷口に咲いた花は生殖器、受精、さらには子供のメタファーである。端的に暴力を振う男性から逃れられない女性像であろうか。あるいは恋愛に傷つく女性のイメージであろうか。なお、闇の中(画面左側)には他のサボテンの姿も浮かんでいる。
《私はふたりもいらない》(530mm×652mm)は、郊外の草生した空地で下着姿で向かい合う2人の女性像。中央の前髪を水平に切り揃えた女性は、ブラジャー以外身に付けていない(描かれているのは胸から上)。虚ろな表情をして目の前にいる、彼女より背の低い女性に手を回している。背の低い女性も同じ恰好であるが、涙袋のメイクが強く入り、背の高い女性をじっと見詰めている。顔や身体に血の跡や疵痕がある。周囲には草地が広がり、白いガードレールが画面を水平に横断している。ガードレールに沿って、電柱の列があり、遠くにはそれらと平行に山並みが見える。背の高い女性の頭は山の端と一体化し、その辺りの空を沈む夕陽がオレンジに染めている。画面上部4分の1ほどはすでに闇に覆われている。背の高い女性の近くには、遠くに立つ鉄塔が奥に向かって伸びている。だがガードレールの辺りで途切れている。連絡は途切れる。ガードレールの手前に広がる荒地は黄泉であろう。ドッペルゲンガーに出会った女性は冥府に下っているのである。