可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 天野祐子個展『Fractal』

展覧会『Kanzan Curatorial Exchange「生き延び」vol.1 天野祐子「Fractal」』を鑑賞しての備忘録
Kanzan Galleryにて、2022年11月18日~12月11日。

天野祐子の「Fractal」シリーズの写真12点で構成される個展。小池浩央によるキュレーション。

《"Fractal"#2》(368mm×468mm)は、空を荒々しく切り取る岩によって囲まれた磯の干潮時の景観。ゴツゴツとした岩にはいくつか空洞の闇が開き、水面近くの傾斜した地層の露頭は引き潮で残された水鏡に反転した姿を映している。《"Fractal"#1》(368mm×468mm)は、水平線が左側にやや傾斜するように海面を切り取った作品。画面上部の空、水平線、穏やかな海面、波の立つ水面が白と藍とのグラデーションを成している。《"Fractal"#2》の傾斜した地層と《"Fractal"#1》の空と海が織り成すレイヤーとの関係は、磯が海景の一部であることからすれば、部分と全体の自己相似「フラクタル」に比せられる。

《"Fractal"#3》(368mm×468mm)は、砂浜に落ちている開いた二枚貝を真上から捉えた作品。靱帯(二枚貝を繋ぎ合わせる蝶番の部分)を境に、紫の部分と青身がかった部分のある白い貝殻の内側が、恰も水面に映し出されたように上下に並んでいる。細かな砂地にはところどころ穴が覗いている。その砂を構成するのはほとんどが微細な砕石であろうが、その中には貝殻の破片が含まれていておかしくはない。それならば、開かれた貝の空洞と、砂に開いた穴とは類比の関係にあると言えなくもない。

 フローベールの『聖アントワーヌの誘惑』にもまた、ヨーロッパ古典主義時代の博物学的かつ荒唐無稽な幻獣たちの分類学と、ヨーロッパ近代の生物学的かつ進化論的(系統論的)な生命の分類学が「混在」している。フローベールが『聖アントワーヌの誘惑』を書き上げるためには、「混在」そのものを作品化する必要があった。そういった意味で、間違いなく、フローベールボルヘスの起源にして原型だった。つまり、「幻想の図書館」は、正真正銘、『言葉と物』の縮約模型にして、その起源であり、原型でもあった。
 (略)
 海底の別世界で、アントワーヌは、まず、動物と植物の差異が消滅してしまったことを知る。「そこではもはや動物群と植物群の間に相互の区別をつけることができない」。地上の植物たる無花果のように見える海底の動物たる珊瑚は、その枝の上に腕を生やしている。「さらには、草たちと石たちが互いに混淆してしまう」。小石は脳髄に、鍾乳石は乳房と同じように見える。動物、植物、鉱物が1つに融け合い、生が死に、死が生に転換してしまう場所に、アントワーヌは1つの「もの」を見出す。
 「最後に、彼、アントワーヌは、針の頭のような大きさで、周囲に柔毛をそなえた、粒子状の小さな塊を認めた。海の起こす振動が、それらを揺り動かしていた」。生命の根源に位置するこの「物質」を目にして、アントワーヌは歓喜に打ち震える(略)
 (略)
 フローベールの『聖アントワーヌの誘惑』。その末尾には、古典的な博物から近代的な生物学への移行そのもの、2つの世界認識の体系(エピステーメー)の差異そのもの、あるいは2つの世界認識の「断層」そのものが刻み込まれていたのだ。根源的な「物質」は、生命の「界」(動物・植物・鉱物)の分割以前に位置付けられ、それゆえ、生命以前と生命以降の「境界」に位置し、非生命たる無機物と清明たる有機物、物質と精神、死の世界と生の正解を1つにむすび合わせる。人工的な「知」の体系、人工の「知」の図書館は燃え上がり、自然のもつ野生の「生命」の体系、野生の「生命」の舞台が立ち現われる。
 (略)
 ヘッケルが、自身の研究の柱とした「放散虫」とは、微少なガラス質を持つ単細胞生物である。海の中を漂い。死ぬとアメーバ状の身体は消え去り、美しい結晶のような殻や骨組みを残して、海底の砂となる。その化石記録は、現在から5億年前の先カンブリア紀にまでさかのぼるが、特異なその生涯やライフスタイルの謎は、いまだほとんど解き明かされていない(異常、「放散虫」についての記述は、佐藤〔引用者註:佐藤恵子『ヘッケルと進化の夢 一元論、エコロジー系統樹』〕によるまとめをほとんどそのまま用いている)。海中を漂う、美しい繊毛をもった微少な生命体。有機物である生命(動物と植物)だけでなく、無機物である鉱物の性質をも1つにあわせもったような存在。ヘッケルが美しい博物画として残した「放散虫」は、フローベールが、アントワーヌに垣間見させた原初の物質、海の起こす振動のなかをゆっくりと漂う「粒子状の小さな塊」そのものであろう。この「小さな塊」によって動物と植物の差異は消滅し、草木と鉱石が1つに混淆してしまうのだ。(安藤礼二『縄文論』作品社/2022年/p.19-26)

《"Fractal"#8》(269mm×346mm)は、枯れた松葉に覆われた地面に置かれた水色のプラスティック製の籠にぎっしりと入った朱と白のカサを持つキノコを捉えた作品。籠という人工物によって松葉の地面とキノコとを接合している。また、《"Fractal"#9》(269mm×346mm)の映し出す岩場の蔭に並ぶフジツボは、キノコのカサとが類比となって、磯と山とを接続する。
改めて《"Fractal"#2》を眺めると、断層を捉えた作品である。断層とは異なる世界が接合された場である。《"Fractal"#3》の二枚貝は、その蝶番機能の象徴であった。

 賢治が「イギリス海岸」と名づけた、花巻市内を流れる北上川西岸の青白い凝灰質の泥岩が露出する川岸は、二百数十万年前の第三紀プリオシン(鮮新世)の終わり頃には海の渚だったのでした。賢治はこの地質学的事実をよく知っており、「その頃今の北上の平原にあたる処は、細長い入海か鹹湖で、その水は割合浅く、何万年の長い間に処々水面から顔を出したり又引っ込んだり、火山灰や粘土が上に積ったり又それが削られたりしてゐたのです」、と「イギリス海岸」で書いています。いわば賢治は、北上河畔のイギリス海岸を通じて、おもいがけなく太古の海と出遭い、花巻にいながらにして海洋的な想像力を刺激されていたことになります。海は、まさに彼の生きる小宇宙の内部にも存在していたのです。「イギリス海岸」にはこうあります。

 この百万年昔の海の渚に、今日は北上川が流れてゐます。昔、巨きな波をあげたり、じっと寂まったり、誰も誰も見てゐない所でいろいろに変ったその巨きな鹹水の継承者は、今日は波にちらちら灯を点じ、ぴたぴた昔の渚をうちながら夜昼南へ流れるのです。(「イギリス海岸」『全集6』335頁)

「鹹水」とは潮水のことです。つまり「巨きな鹹水」とは海のことであり、北上川は「海の継承者」であるというのが賢治の深い直観でした。さらにこのイギリス海岸の古い泥岩の地層のなかの炭化した木の根株のまわりから、「私」は生徒たちと一緒に化石化した「クルミの実」を40ばかり拾ったことが「イギリス海岸」の挿話でも触れられていますが、現実も、賢治はここで第三紀の地層と思われる場所からクルミの実の化石を採集しているのです。第三紀プリオシン(鮮新世)に生きていたバタグルミの化石を日本で初めて発見し、学会で発表したのは賢治でした(現在では新たな地質学的知見が加わり、賢治が発見したのは第四紀更新世の頃のオオバタグルミだったと考えられています)。
 くるみの楕円形の核果、そのゴツゴツとした複雑な襞模様のなかに、賢治は百数十万年という途方もない時間を透視しました。まだ列島に人類などまったく現れていない世界。そこにも海は打ち寄せ、浅瀬に顔を出し、草や木が生い茂り、クルミの木が果実を実らせ、そこに西の方の火山が赤黒い舌を吐いて火山礫が降り積もり、木々は押しつぶされ、土中に埋められて、ついにいま賢治によって百数十万年前のクルミの実が再発見されたのです。このような、ヒトの種的記憶をもはるかに超える、悲劇でも喜劇でもない、ありのままの長大な生命倫理のなかで、海の原理と山の原理、渚の原理と火山の原理は、いまこの瞬間において触れ合っているのでした。
 時を凝縮するクルミの化石は、「銀河鉄道の夜」の夢の天の川の河畔でも、こんなかたちで掘り出されています。

「行ってみよう。」二人は、まるで一度に叫んで、そっちの方へ走りました。その白い岩になった処の入口に、
〔プリオシン海岸〕といふ、瀬戸物のつるつるした標札が立って、向ふの渚には、ところどころ、細い鉄の欄干も植ゑられ、木製のきれいなベンチも置いてありました。
「おや、変なものがあるよ。」カムパネルラが、不思議さうに立ちどまって、岩から黒い細長いさきの尖ったくるみの実のやうなものをひろひました。
「くるみの実だよ。そら、沢山たくさんある。流れて来たんじゃない。岩の中に入ってるんだ。」
「大きいね、このくるみ、倍あるね。こいつはすこしもいたんでない。」
「早くあすこへ行って見よう。きっと何か掘ってるから。」
 二人は、ぎざぎざの黒いくるみの実を持ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚には、波がやさしい稲妻いなずまのように燃えて寄せ、右手の崖には、いちめん銀や貝殻でこさえたやうなすすきの穂ほがゆれたのです。(「銀河鉄道の夜」『全集7』、257-258頁)

 賢治が夢想した「銀河鉄道」が、壮大な時間と空間の結節点であることは云うまでもありあません。そこでは、異なった場所、時間、生命体、無生物ですら、おのれの「歴史的」「地理的」に限界づけられた存在を破って、すべてがめくるめく時空間において出逢い、相互浸透するユートピアを指向していました。この、北上川でもあり、太平洋でもあり、さらには賢治の天空的想像力においては「天の川」でもある川の渚に打ち寄せる波。クルミの実をこぼす樹木。崖で揺れるすすきの穂。そのはざまで稲妻や銀や貝殻が静かに始原の騒音をたて、赤々ときらめいています。これは「海」と「山」の時を超えた触れ合い、ほとんど交合と言ってもいいような聖なる光景です。賢治世界が、その幻想地理学がどこにおいても海と山の同時的・即時的な接触と重なり合い、そのはるかな時間をおいた共存と相互変容の相において生きられていたことの証拠です。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.52-55)

「同時的・即時的な接触と重なり合い」を可能にするのは、「フラクタル」を蝶番とする類比の力である。