オドレイ・ディワン(Audrey Diwan)監督の映画『あのこと(L'Événement)』について、原作アニー・エルノー(Annie Ernaux)の小説「事件(L'Événement)」との比較。
原作は、作家が病院に向かい、エイズ抗体検査の結果を通知される場面から始まる。
わたしは、1963年、いまと同じ恐怖と信じられない思いでN医師の診断を待っていたときと同様、このラリボワジエール病院での瞬間を生き延びたのだと悟った。わたしの人生は、それゆえ、オギノ式と自動販売機で1フランのコンドームとのあいだに位置づけられている。それはわたしの人生を評価するよい方法だ。ほかのやり方より確かな方法でもある。(アニー・エルノー〔菊地よしみ〕「事件」アニー・エルノー『嫉妬/事件』早川書房〔ハヤカワepi文庫〕/2022年/p.94)
そして、作家は「1963年の10月、ルーアンで、わたしは生理がやってくるのを1週間以上待っていた」(アニー・エルノー〔菊地よしみ〕「事件」アニー・エルノー『嫉妬/事件』早川書房〔ハヤカワepi文庫〕/2022年/p.95)と、学生時代の妊娠・中絶を振り返っていく。
あらためて人生のあの時期に身を投じて、そこで何を見いだせるのか探ってみたい。その探究は物語の横糸として織りこまれるだろう。そうすることしか、わたしの内部と外部の時間でしかなかった出来事は用言できない。その数カ月のあいだつけていた日記と手帳が、手がかりをもたらし、事実を証明するのに必要な証拠となってくれるだろう。何よりもまず、わたしは、ひとつひとつのイメージのなかに降りていって、それらと“ふたたび一体になった”肉体的感覚が得られるまで、そうして、“まさしくそれだ”と言えるいくつかの言葉が現れてくるまで、努めてみるつもりでいる。つまりそれは、わたしのなかで消えずにいる、そうした言葉のひとつひとつにふたたび耳を傾けることであり、当時はその意味がどうにも我慢できなかったり、あるいは逆にひどく慰められたに違いない言葉――いま考えてみても、嫌悪感ややさしい感情に呑み込まれるはずの言葉――を聞きなおすことなのである。(アニー・エルノー〔菊地よしみ〕「事件」アニー・エルノー『嫉妬/事件』早川書房〔ハヤカワepi文庫〕/2022年/p.104-105)
原作は、日記や手帳などの手掛かりから事実を書き起こし、それについて作家が自らコメントを加える形(オートフィクションの手法)で進行する。それに対して、ディワン監督は、作家の語り(回想)や主人公の独白を一切導入しない。主人公の姿(行動)を捉える映像を通じて、彼女の肉体的感覚を直接的に鑑賞者に伝えようとしたのだろう。
事実の書き起こしとその評価という構造を排したため、事実が取捨選択されるなど随所に変更が見られる。とりわけ登場人物が絞られた。主人公にはアンヌとの名が与えられ、行動をともにする文学部の女友達エレーヌとブリジットを配し、男友達のジャンは妻帯者ではなくなっている。アンヌの堕胎に関わる人物も医師と「天使製造者」(堕胎業者)などに限定された。舞台となる都市も変更され、アンヌを妊娠させて恋人に会いに行くのは海となった。社会階層に関する差別については少なくとも表立っては描かれない(アンヌの実家と恋人の家の対比などから暗示に留まる)。原作における文学、音楽(とりわけスール・スーリール)、舞台(サルトルの『出口なし』が印象的)、映画への言及もカットされている(小説を書き始めていたことも)。
ルーアンに戻った。寒いけれど、日差しにめぐまれた2月だった。同じ世界に戻ってきたとは思えなかった。通行人の顔、車、学食のテーブルの上のお盆、目にするものは何もかも、意味があふれているように思えた。でも、まさにその過剰さのゆえに、ひとつとしてその意味がつかめなかった。一方には意味の過剰な存在と物があり、もう一方には意味を欠いた言葉と単語があった。わたしは、言語を超えた、熱に浮かされたような純粋意識の状態にあり、それは夜でも中断しなかった。自分は目覚めていると確信している。明晰な睡眠を眠っていた。わたしの前には、ちっちゃな白い胎児が浮いていた。ジュール・ヴェルヌの小説のなかで、虚空に投げ捨てられた犬の死骸が、どこまでも宇宙飛行士たちのあとをついてくるのに似ていた。(アニー・エルノー〔菊地よしみ〕「事件」アニー・エルノー『嫉妬/事件』早川書房〔ハヤカワepi文庫〕/2022年/p.196)
とりわけ印象に残る変更は、時間に関するものだろう。
(話に引きずられて、知らないうちに、ひとつの方向に――不可抗力的に進みはじめた不幸という方向に――向かわされているようだ。日々や週を駆け抜けていきたい欲望に抗うようにしなくてはならない。あらゆる手段――細かな事柄の探索と記述、半過去時制の使用、事実の分析を用いて、まるで夢のなかの時間のように、進まずに濃密になっていったあの時間、あくまでも緩慢に流れていたあのときの時間を維持するように努めよう)。(アニー・エルノー〔菊地よしみ〕「事件」アニー・エルノー『嫉妬/事件』早川書房〔ハヤカワepi文庫〕/2022年/p.125)
原作における始まりと終わりが明示されない半過去時制の叙述(但し、訳文からはどの程度用いられているのか識別困難)に対し、映画では"3 smaines(3週)"のように妊娠からの時間経過が表示される。時間が経てば経つほどアンヌの身体は変化し、胎児は成長し、中絶は困難になる。原作では「榴弾の炸裂のように」と胎児の排出が表現されるが、恰も時限装置による起爆が迫るような緊張感がもたらされた。
わたしは、あの出来事に関してこれまで感じてきた唯一の罪悪感を消し去った。あれがこの身に起こったのに――せっっかくの贈り物を無駄にしてしまうように――それについて何もしなかったという思いを。というのも、わたしが経験したことに関して見いだしうる、あらゆる社会的、心理学的な理由を越えて、何よりも確信している理由がひとつあるからだ。それは、さまざまなことがこの身に起こったのは、それを説明するためなのだということ。それと、わたしの人生の真の目的は、おそらくこういうことでしかないからだ。わたしの体、感覚、思考を書く行為によって――言い換えれば、一般的に理解できるものによって――ほかの人たちの頭と人生のなかに完全に溶け込む、わたしの存在にするということ。(アニー・エルノー〔菊地よしみ〕「事件」アニー・エルノー『嫉妬/事件』早川書房〔ハヤカワepi文庫〕/2022年/p.204-205)