展覧会『中小路萌美「なにかが何かになる前」』を鑑賞しての備忘録
gallery N 神田社宅にて、2022年11月19日~12月3日。
水色の画面に山や建物などを彷彿とさせるモティーフが配される絵画6点で構成される、中小路萌美の個展。
出展作品中、最大の画面の《ふすた》(970mm×1303mm)は、上部に2つの頂を持つ連山を思わせる形――乳房と腹が膨らんだ土偶の横倒しの姿――を思わせる暗めのビリジアンの部分があり、画面の下端を底辺として「連山」の中の頂点に向けて窄まっていく三角形――川を思わせる――が青で描かれている。連山の右上には雲のようなもの――足袋を裏から眺めたような形――がピンクで表され、青い矩形、緑の小さな「連山」、そして紫の2つの三角形が組み合わさった形が画面右下へと伸びている。それらモティーフ以外を占めるのは青空のような水色だ。
単純化された「連山」や「川」や「雲」が「青空」の中に浮かぶ抽象的な風景画に見える。だが風景として見ようとすると、右側のモティーフである、「雲」から紫のギザギザへの連なりがその想念に待ったをかける。画面の左側3分の2では、「川」の三角形の上に「連山」の山がバランスを取ってうまく乗っかっているのに、右側の「雲」がそのバランスを崩そうと邪魔をしているかのようだ。
ところで作家は、「何気なく風景を見ていると、ふと目の前のものがよくわからないなにかにみえる瞬間があ」り、「驚き、よく見ようとするがそれはもうみることはできず見知ったものになっている」という経験を語る。おそらく作家は、その経験を鑑賞者に体験(共有)させる装置として絵画を制作しているのではなかろうか。目の前に見ている景色が、実は思った通りの景色ではないことに気付かせる仕掛けを画面に組み込むことによってである。
「ブルームズベリー・グループの中心人物だった作家ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)の有名な短篇「青と緑」から「青」に関するくだりを引用してみましょう。
潰れた鼻の巨きな生き物が水面に現れ、ずんぐりとした鼻に並んだ孔から2本の水の柱を噴きあげる。水の柱の中央部は青白い炎の色で、飛沫が青いビーズ(小珠)の房飾りのように周囲を彩っている。青い線が黒く厚い皮に幾筋も走っている。口や鼻孔を水が洒うに任せ、生き物は沈んでいく。水で重くなる。青は身体全体を覆い、磨いた瑪瑙のような眼を覆う。浜辺に打ち上げられて生き物は横たわる。蒙く、鈍く、ぽろぽろと乾いた青い鱗を零しながら。その金属を思わせる青が浜辺の錆びた鉄を染めあげていく。青は打ちあげられた手漕ぎボートの肋材の色。一叢の青い糸沙参の下で水が揺蕩う。何より大聖堂の傑れて、冴々として、香を含んだ青、聖母たちのの被衣の、その精妙な青。(「青と緑」[1921]/『ヴァージニア・ウルフ短篇集』西崎憲訳、ちくま文庫[1999])
ウルフは目に入ってくる断片から、次々とイメージを想起させ、記述していっていますが、それが最終的に何なのかは確定されません。ゆえに、鼻のつぶれた化け物というイメージ=印象はすぐに、ビーズの青へ、黒く厚い皮の青い線へと移っていくのです。その変化の中で持続しているのはただ、青という色彩であり、その移行それ自体です。(略)
6月27日 川の夕暗。花の色に灰。水音。かしか。石火。河の女の子。ひん牡のかがやかしもの。そら雨。(1903年の熊谷守一の日記より。岐阜県歴史資料館所蔵)
装飾的なほど形容が羅列されたウルフと比べ、ぶっきらぼうともいえる完結〔引用者註:「簡潔」か。〕な記述です。が、熊谷守一も同じように、河辺で目に入ってきた断片を次々と借りの単語に繋ぎとめ記述していくことでは共通しています(ウルフが「潰れた鼻の巨きな生き物」、守一が「ひん牡のかがやかしもの」と仮に記す以上の、そこに全体を確定する最終的なイメージがあるわけではありません)。
ウルフと守一の文章にあるこうした構造は、エイヴリーの絵と守一の絵を見るときの経験に極めて近接しています。眼に次々と入ってくる色彩がいったい何を示しているのかは、すぐには判然としない、ゆえにわれわれはその絵に惹かれて見続けてしまう。やがていろいろなものに気づいていく。1955年当時、守一はこんな風に語っています。
あなたは此所にいるが、何時迄も此所にいない。それを描けるか。牛を描いたが、自分は牛を描きたいのではなくて、景色を描きたかった。それで消してしまった、思い違いをしていた。牛を描いた方が良く分かりますけれども、自分の仕事としてととてつも無い事があって、はじめの処で酷い思い違いがあるのです。(熊谷守一「私の生い立と絵の話」『心』6月号[1955])
ここで守一のいっていることは、この話の中の「描く」という語を「見る」に置き換え、すなわち「牛を見たが、自分は牛を見ているのではなくて、景色を見ていた。それで消してしまった……」としてみると、よりはっきりするでしょう。「はじめの処で酷い思い違いがある」というのは、人は何か見ているとき、自分が「何か」を見ていると「自分が分かっている」と思い込んでいるということです。が、実はそれが「何か」はわかっていない。(岡崎乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』亜紀書房/2018年/p.159-161)
「人は何か見ているとき、自分が『何か』を見ていると『自分が分かっている』と思い込んでいる」「実はそれが『何か』はわかっていない」ことを知らしめる。その装置としての絵画。