映画『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のイギリス映画。
111分。
監督は、ウィル・シャープ(Will Sharpe)。
原案は、サイモン・スティーブンソン(Simon Stephenson)。
脚本は、サイモン・スティーブンソン(Simon Stephenson)とウィル・シャープ(Will Sharpe)。
撮影は、エリック・ウィルソン(Erik Wilson)。
美術は、スージー・デイビス(Suzie Davies)。
衣装は、マイケル・オコナー(Michael O'Connor)。
編集は、セリーナ・マッカーサー(Selina Macarthur)。
音楽は、アーサー・シャープ(Arthur Sharpe)。
原題は、"The Electrical Life of Louis Wain"。
白髪に白髯のルイス・ウェイン(Benedict Cumberbatch)が患者衣姿で1人椅子に坐っている。彼の描いた猫の絵が粗末な部屋のあちらこちらに置かれている。窓台に置かれたラジオからは彼を讃えるメッセージが流れて来る。アーティストのルイス・ウェインは、猫を自らのものにしました。彼は猫のスタイル、猫の社会、全てが猫から成る世界を生み出したのです。ルイス・ウェイン風ではない猫など、肩身が狭いくらいです。しかし、そんなことは大したことではありません。重要なのは、ルイス・ウェインが私たちの暮らしを猫に近づけてより幸せにするために尽したことです。彼は私たちの暮らしに猫を持ち込み、世界をより良いものへと変えました。
豪雨の中、薄暗い街路を傘を差した神父と喪服の人々が歩いている。未亡人となったウェイン夫人(Phoebe Nicholls)、娘のキャロライン(Andrea Riseborough)、ジョセフィン(Sharon Rooney)、マリー(Anya McKenna-Bruce)、フェリシー(Indica Watson)。 稲妻が一瞬行列の中のルイスの顔を浮かび上がらせる。道の隅には雨を避けて物陰に潜む猫たちの姿がある。
社会的偏見と悪臭はさておき、ヴィクトリア朝のイングランドは革新と科学的発見の地でもありました。世界的な俊秀たちの多くは電気の性質を探究し、その力の実用化を目指していました。しかし若きルイス・ウェインにとって電気とは人間の頭脳ではほとんど理解することさえできないほど風変わりで奇妙なものでした。時としてエーテルの中で輝くのを感じられる不思議な自然の力であり、生命の最も深遠で驚くべき秘密に対する鍵でもあったのです。
1881年。アンドーヴァーでの農業見本市に参加した人々と動物とでごった返す蒸気機関車。見本市の取材に出向いたルイスが沢山の荷物を抱えて混雑した車両を移動し、何とか坐る場所を見付けた。記憶を頼りに必死にペンを走らせていると、隣にいた人物(Adeel Akhtar)から声をかけられる。絵描きさんですか? ええ、仕事で。特許の取得にも取り組んでいます。農業見本市に行かれたんでしょう? 泥だらけですね。喧嘩でもしたんですか? いや雄牛に襲われたんです。ルイスは描いていた絵を見せる。あなたでしたか、話題になっていたのは。いくらならクレオパトラの絵を描いてもらえますか? すみませんが人の絵は…。男は抱きかかえている猫がクレオパトラだと言うと、ルイスは無料で描きますよと応じる。それはご親切に。姉が具合が悪くて私が連れているんですよ。姉を元気づけられたらと思いましてね。ちなみにダン・ライダーと言います。差し出された手を握り返すことなく、絵を描くルイス。
ボクシング・ジム。弱点を探せ、自分のは見せるな。ウェインが腕を振り回し、黒人のボクサーに殴りかかったところを一発で仕留められる。シルクハットの紳士がルイスに待ち合わせに遅れるぞと言うが、ルイスは立ち上がって再びボクサーに挑む。だが一瞬にして顔面にストレートを食らってダウンする。
イラストレイテッド・ロンドン・ニューズの社屋。ルイスが社主のウィリアム・イングラム卿(Toby Jones)と話しながらオフィスに向かっている。見本市での愚かな振舞については報告を受けておる。会場で一番獰猛な動物の囲いに攀じ登ったとかで苦情の山だ。私は詳しく観察したかったのですが、彼にはユーモアの感覚が十分ではなかったようで…。絵を描く依頼をする度に君は何かしら馬鹿げた騒ぎを引き起こす…。何故牡牛にピーナッツなど投げつけた? ピーナッツで牡牛を鎮められると聞いていたんですが、効果はありませんでした。社主の部屋に入った2人は向かい合って坐る。君の描くものは素晴らしい、さもなければとうに手を切っておったろうよ。それでその顔はどうしたのかね。この怪我は牡牛によるものではありません。ボクシングのためでして。ボクシング? これはいつ描いたのかね? 牡牛の絵を手にするウィリアム卿。車中で、記憶をもとにです。全て? どれくらい速く描けるのかね? お見せしましょう。ルイスは画板を取り出すと両手にそれぞれペンを持ち描き始める。率直に言おう、最も仕事が速く量もこなせる画家の1人が商売敵に引き抜かれてしまったのだ。代わりは務まると思うかね? ええ、間違いなく。それほど負担とは思いません。やりますよ、諸々の支払いや5人の腹を空かせた妹たちを養うために。もちろん、彼女たちの結婚までの間ですが。実のところ、あらゆることが不如意ですから。ルイスは会話中に描き上げたウィリアム卿の似顔絵を差し出す。君は私を理解していないようだね。君の仕事の速さと質とを考慮して、愚かな行動を控えてもらうという条件付きだが、私は君にイラストレイテッド・ロンドン・ニューズのスタッフとして無期限の地位を提供するつもりなのだよ。それはご親切に、ですが無理です。私は完成させなければならない電気の特許をいくつか抱えており、今しも有名な音楽家ヘンリー・ウッドとの約束に遅れているからです。ヘンリー・ウッド? 私はオペラを書いたのです。
ティールームでルイスはヘンリー・ウッド(Richard Ayoade)と面会する。これはオペラではありませんね。伝統的な基準からすれば楽曲としては認められませんよ。あなたの想念に過ぎない。あなたの熱意は買いますがね、まずは和声学を身に付けなければなりません。私は独自の和音を発明したんです。その通り、それこそが問題なのですよ。慰めになるでしょうか、あなたが表紙に描いた絵は魅力的だと思います。
父親が他界して18ヶ月。ルイスは名目上は一家の主となりました。彼は新たな世俗的な責任を負うのに全く相応しくありませんでしたが、6人兄妹の最年長の男性として、残念ながらそれは彼の義務となりました。
ルイスが帰宅する。ジョセフィンが駆け下りてくる。アンドーヴァーで結婚相手は見つかった? いや、ヤギやガチョウや意地悪な牡牛には出会ったけどね。それじゃ役に立たないわ。またボクシングなの? 気まぐれで奔放な母に不満を抱き、若くして家長となったキャロラインがルイスに声を張り上げる。絵を渡したからほとんど費用はかからないよ。包丁を手にしたままキャロラインがルイスに迫る。ああ、遂に私を殺しに来たのか。フェリシー、守ってくれ。フェンシングの剣を持って構えを取るフェリシー。止めなさい! 私たちは家計について話さなければならないの。ウィリアム卿との面談はどうなったの? ウィリアム卿は満足しているの? 満足しすぎるほどだよ。彼は常勤の画家として採用すると言ってくれたんだ。ルイスはそそくさと自分の部屋に向かおうと階段を登る。常勤の画家ですって? そうだよ、断ったけどね。今なんて言ったの? 何故? あなたの稼ぎの2倍は出て行くのよ、おまけに住み込みの家庭教師を雇ったばかりなの。あの部屋は取って置いて欲しいと言ったのに。妹たちの指導なら僕ができる。必要な科目全てについて完璧な能力があるんだからね。いいえ、無理よ。働いてもらわなくちゃ。ルイスはキャロラインから逃げ出すように階段を駆け上がる。家庭教師さん、申し訳ないけど今は必要がないんです。ルイスは家庭教師を探して回る。だが見当たらない。家庭教師のエミリー・リチャードソン(Claire Foy)はクローゼットの中に隠れていたのだ。
ルイス・ウェイン(Benedict Cumberbatch)は父親の死により家長の立場を引き継ぎ、母親(Phoebe Nicholls)と5人の妹たちの生活を支えることになった。坊ちゃんで好事家のルイスは絵画、発明、ボクシング、作曲に明け暮れ、母に代わり家計を切り盛りするキャロライン(Andrea Riseborough)から稼ぎを得るようせっつかれていた。イラストレイテッド・ロンドン・ニューズの社主ウィリアム・イングラム卿(Toby Jones)から常勤の画家として採用したいとの提案を多忙を理由に断ったルイスは、キャロラインに激怒される。キャロラインはルイスの就職を当て込んで住み込みの家庭教師を採用したところだった。幼い妹たちの勉強なら自分でも教えられると家庭教師に引き取りを願おうとしたルイスだが、エミリー・リチャードソン(Claire Foy)を目にして考え直す。ルイスはエミリーを雇うためにウィリアム卿に一旦断った仕事の申し出を引き受けることにする。シェイクスピアを愛好するエミリーのために『テンペスト』の観劇チケットを手に入れたルイスは得意になってエミリーを誘いに行くが、ノックせず部屋に入ったことをエミリーから咎められる。翌朝、ルイスは口髭を落としてエミリーに謝罪する。彼には幼い頃にいじめられる原因となった口唇裂があったが、エミリーはそれを気にしなかった。2人は妹たちの教育を名目に劇場に向かうが、上流階級に属する観客たちは家庭教師とともに姿を表したルイスを白眼視する。船が遭難する冒頭の場面で、ルイスは幼い頃のトラウマが呼び覚まされ、席を立たざるを得なかった。エミリーはルイスを思いやって彼の後を追う。2人は互いに惹かれ合っていることを確信する。
(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)
ヴィクトリア朝のイングランドが舞台。ルイス・ウェインはエミリーとの暮らしに迷い込んだ仔猫を可愛がり、病に伏せたエミリーのために猫の絵を数多く描く。それが猫の画家として成功するきっかけとなる。
当時、猫を飼うということは一般的ではなかったが、ルイスが擬人化した諧謔のある猫たちの姿が、社会に猫を受け容れさせるきっかけとなった。
上流階級に属するルイスと下層階級のエミリーとの恋はヴィクトリア朝では道ならぬものであった。ルイスとエミリーとは愛を貫き、結婚する。
猫を社会に受け容れさせることと、下層階級の女性を娶ることとは、既存の道徳観念や価値観を変容させるものとしてパラレルである。
そして、原題にある"Electrical Life"もまた、新しいエネルギーである電気が生活に入り込むようになった社会――冒頭をラジオ放送(electrical wave)が飾る――を指すという意味で、新たな価値観を受け容れることを象徴するのであった。もっとも、電気の描かれ方は今一つで"Electrical Life"とタイトルに冠するほどであったかは疑問であった(映画『テスラ エジソンが恐れた天才(Tesla)』(2020)的な展開を期待してしまったせいもあるかもしれないが。因みにBenedict Cumberbatchは同時代のアメリカを舞台とした『エジソンズ・ゲーム(The Current War)』(2017)でエジソンを演じている)。
アーサー・コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle)も心霊主義に肩入れをしていたが、電気という不可思議なものにエーテル(エーテル体)などとの相同性が考えられていたのだろう。例えば、精神を病んでしまってどうすれば良いのか分からない状況に陥ったルイスが電気に縋ろうとするのは頷ける。
Stacy Martinの姿を拝めたのも嬉しい。『ニンフォマニアック(Nymphomaniac)』(2013)で鮮烈な印象。『グッバイ・ゴダール!(Le Redoutable)』(2017)のヒロイン。とりわけ『アマンダと僕(Amanda)』(2018)をお薦めしたい。
Hayley Squiresの出演作『わたしは、ダニエル・ブレイク(I, Daniel Blake)』(2016)は本当に素晴らしい。彼女のあるシーンが忘れがたい。