可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ケイコ 目を澄ませて』

映画『ケイコ 目を澄ませて』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の日本映画。
99分。

監督は、三宅唱
原案は、小笠原恵子の自伝『負けないで!』。
脚本は、三宅唱と酒井雅秋。
撮影は、月永雄太。
照明は、藤井勇。
録音は、川井崇満。
美術は、井上心平。
装飾は、渡辺大智。
衣装は、篠塚奈美。
ヘアメイクは、望月志穂美と遠山直美。
編集は、大川景子。
音響効果は、大塚智子。

 

小河恵子(岸井ゆきの)が自宅。床に腰を下ろし机に向かって何か書き物をしている。グラスを手に取り飲もうとするが、氷しか残っていない。恵子は氷を頬張りガリガリと噛み砕く。
2020年12月。荒川近くの住宅街。古びた街灯が明滅している。小雪が舞い始めた。ボクシング・ジムでは、練習生たちが縄跳び、ケーブルマシン、サンドバッグなどに打ち込んでいる。壁に掛かった色褪せたボクサーの記念写真はジムの歴史を伝える。隅で会長(三浦友和)が居眠りしている。恵子がロッカーを軽く叩く。小さな更衣室の椅子に座っていた練習生がおはようと恵子に挨拶して出ていく。
恵子は生まれつき感音性難聴のために両耳が聞こえない。1R1分52秒でKO勝ちしてプロデビュー戦を飾った。
恵子が練習着に着替える。松本進太郎(松浦慎一郎)が小さなホワイトボードにコンビネーション・ミットをやろうと書く。恵子が松本の動作を真似てリズミカルに松本の繰り出すミットを打って行く。恵子を会長が見守っている。恵子はケーブルマシンなどをこなしてその日の練習メニューを終えると、ノートに記録を付ける。
アパートに戻ると、弟の聖司(佐藤緋美)がギターを弾いていた。恋人(中原ナナ)がお邪魔してますと恵子に挨拶する。恵子は洗面所に行って洗濯機に汚れ物を入れ、洗面台に水を張って痛みやすい衣類を手洗いする。その間、弟の彼女はお邪魔しましたと帰って行った。食卓には宅配されたピザの箱などが散らかったままで、聖司はヘッドホンをして音楽を聴いている。弟に手話で家賃を請求する。差し出された金額では足りなかった。残りはいつ? 来月にまとめて。弟が手話で答える。恵子は再び洗面所へ。
元気で。たまには顔を見せにおいで。会長が電話を切る。誰でした? 林誠(三浦誠己)が尋ねる。山田さんとこのご兄弟。柱に貼られた練習予定表の兄弟の欄に赤い線を引く。他にも赤い線が引かれている。
未明。暗い部屋の中、スマートフォンが点灯すると、間もなく扇風機が作動する。恵子が目を覚まし、起き上がる。居間の床で寝ている弟に毛布をかけてやり、付けっぱなしの電気を消す。
まだ薄暗い町に恵子が駆け出していく。ランニングを終えて河原でストレッチをする頃にはすっかり日が昇った。会長が隣にやって来てボトルを置く。ストレッチをする2人を高架を行き交う自動車の走行音が包む。ストレッチを終えて並んで土手に坐る。会長がボトルの飲み物を蓋に注いで恵子に渡す。鉄橋を渡る列車が大きな音を立てる。恵子はシャドーボクシングを始め、それを見て会長が微笑む。
ホテルの客室。恵子がユニフォームを身につけて清掃業務に当たっている。同僚(丈太郎)が電話が鳴ったのに気付いて出る。彼が恵子に腕時計の忘れ物ってありましたっけと確認する。恵子には彼が何を言っているのか分からない。同僚はマスクを外して同じ質問を繰り返す。恵子がカートに提げた袋を指差す。彼が袋の中から腕時計を取り出すと、ありましたと電話に応答して出ていく。
病院で会長が健康診断を受けている。聴力や視力の検査の結果は、受けている最中から芳しく無さそうであることが分かる。ロビーで待つよう促された会長が付き添いの妻(仙道敦子)の隣に坐る。会長は妻に放射線を一杯浴びてきたと溢す。妻はテレビで宝籤の宣伝をしているのを指摘する。本当に当たる人、いるのかね? 
コンビニエンスストア。恵子がレジで会計をしている。ポイントカードありますか? 店員の質問に反応しない恵子。ポイントカード作って頂くとお得になるんですよ。恵子は会計だけを済ませて店を出て行く。
恵子が街を行く。外出を自粛して下さいというアナウンスが鳴り響いている。
大通りからジムへと向かう階段を降りようとしたところで恵子がサラリーマンとぶつかる。男は荷物を落とす。拾えよ! 怒鳴るサラリーマン。恵子は階段を下っていく。
ジムで恵子は会長を相手にミット打ちをする。会長の奥さんも見学している。林が椅子を勧めるが、立ったまま眺める。
林はパンチングボールを打っている若い練習生(安光隆太郎)にもっとゆっくりと中心を狙って打つようアドヴァイスする。恵子はケーブルマシンを使い、コンビネーション・ミットを行う。若い練習生は恵子が気になっている様子。皆が練習を終えて帰って行く。林に怒鳴られている練習生もいるが、恵子は黙々と練習を続ける。
朝。バランスボールに坐りながら、恵子が髪を乾かしている。
2021年1月15日。恵子がリングに上がる。

 

荒川区出身の小河恵子(岸井ゆきの)は1R1分52秒でKO勝ちしてプロデビュー戦を飾ったボクサー。生まれつき感音性難聴のために両耳が聞こえない。その上身長も低いしリーチも短い。以前所属したジムでは試合に出してさえもしなかった。恵子に器量があると見込んだ現在の所属先のジムの会長(三浦友和)が面倒を見てくれていた。会長を慕う林誠(三浦誠己)と松本進太郎(松浦慎一郎)の2人のトレーナーが屋台骨のジムは、敗戦直後から70年以上の歴史を誇る。だが新型コロナウィルス感染症の流行により退会者が続出する一方、新規の入門者も現れず、経営が行き詰まっていた。妻(仙道敦子)との間に子がいない会長は、自らの体調の問題を引き金に、ジムを閉める決意を固める。恵子は耳の聞こえない自分が会長を始めとするジムの面々に迷惑をかけていると、ボクシングの継続に自信を持てなくなっていた。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

冒頭、恵子と松本のリズミカルなコンビネーション・ミットで、一気にボクシングの世界に引き込む。
音楽を用いず、環境音によって占められている。その環境音は恵子には届かない。のみならず、近くで練習生を叱る林の怒声も、緊急事態宣言を発令するアナウンスも、ぶつかったサラリーマンの罵声も、目の前を通り過ぎる列車の騒音も、恵子には聞こえない。
音に満ち溢れた世界の中で、聾啞者の恵子の主観を表現するために無音を用いる演出をしない。また、恵子を遠くから狙うショットが多い。それは主人公との距離を保つことで、かえって鑑賞者に恵子の心情を想像させるよう促す働きがある。
会長は恵子の器量に気付く。それは会長に器量があるから。見えないものが見えている。若い練習生には、見えるものしか見えなかった。だから彼はジムを去ることに決めた(そんな彼を林は引き留めようとはしない)。

ジムは空襲で焦土と化した東京の焼け残りに開設された。それは奇蹟である。聾啞の女性がジムの門を叩いたのもまた奇蹟である。宝籤の当選に劣ることのない奇蹟を、会長は引き当てていた。

映画は、ジムのシーンではなく、恵子の自宅で書き物をしているシーンで始まる。恵子は何を書いているのかは明らかにされない。だが、テーブルには小さな鏡が置かれていて、そこに恵子の顔が映る(reflect)。すなわち、恵子の内省(reflection)を暗示するのである。本作において鏡は重要なモティーフである。ジムの鏡を拭くのは会長である(他のものが鏡を拭くシーンはない)。
子のいない会長にとって、恵子は娘同然だ。会長と恵子とがストレッチをしたり、シャドーイングをしたり。同じ動作をすることで、心を通じ合わせる。
会長は恵子に次の試合をやりたくないならやらなくてもいいと伝える。会長には恵子の心が見えている。恵子はボクシングから距離を取る決心してジムに向かうと、視力が下がった会長はモニターを抱えるようにして恵子の過去の試合のヴィデオを見ているのを目撃する。その後、恵子は会長と一緒に鏡に向かって拳を繰り出す。恵子と会長とは同じものを見ている。恵子は会長の姿を焼き付けようと目を見開き続ける。だが無論、涙がこぼれるのは、目が乾くからではないだろう。
その後、会長は入院してジムに姿を見せなくなる。会長のいなくなったジムで鏡を拭くのが恵子である。ここに会長の意志を恵子が継承することが示された。
河原にいた恵子に、対戦相手が挨拶に来る。さらっと描かれていたけれど、恵子の器量の証左として効いていた。

街の景色を映し出す場面が頻繁に挿入される。いつの間にか映画は終幕している。クロージング・クレジットもまた街の景色を淡々と映し出す。最後、船が川を行くと、数羽の鳥がその後を付いて飛んでいく。船は会長であり、鳥たちは会長の薫陶を受けたジムの面々だろう。

聾啞のボクサーを演じた岸井ゆきのが最後まで惹き付けて止まない。何回か、小さな声で「はい」という以外にセリフはなかった。だからこそリングでの絶叫が届く。
三浦友和は、映画『線は、僕を描く』(2022)で横浜流星に後を委ねたと思ったら、今度は岸井ゆきのに継承させている。もともと格好いい俳優が、歳を重ねて魅力をますます高めている。恐るべし。
ジムを支えるトレーナーを演じた三浦誠己と松浦慎一郎とが映画も支えて印象的であった。