可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ある男』

映画『ある男』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の日本映画。
121分。

監督・編集は、石川慶。
原作は、平野啓一郎の小説『ある男』。
脚本は、向井康介
撮影は、近藤龍人
照明は、宗賢次郎。
録音は、小川武
美術は、我妻弘之。
装飾は、森公美。
スタイリストは、高橋さやか。
ヘアメイクは、酒井夢月。
VFXスーパーバイザーは、赤羽智史。
特殊メイクは、中田彰輝。
音響効果は、中村佳央。
音楽は、Cicada。

 

ルネ・マグリットの《不許複製》の複製画が飾られたバー。1人の客が出て行く。ありがとうございました。バーテンダーがグラスを下げる。いらっしゃいませ。別の客がカウンターにやって来る。
宮崎県のある町。誠文堂文具店。雨が強く降っていて、客の姿は無い。武本里枝(安藤サクラ)がペンなど棚の商品を並べ直している。里枝の目から涙が溢れ、止まらなくなる。1人の男(窪田正孝)が来店する。里枝はカウンターに戻り、涙を拭う。男は里枝を一瞥するとスケッチブックを買い求める。ありがとうございます。2,030円です。ちょうど頂きます。稲光とともに店の照明が落ちる。男は店の外を眺める。ブレーカーはどこですか? 向かいは点いたままだから。里枝が男を店の奥に案内すると、男が分電盤を探り当てスイッチを入れる。ありがとうございます。里枝が雨の中をビニール傘を差して出て行く男の姿を見送る。
里枝が台所に立ち朝食の準備をしていると、悠人(森優理斗)が冷蔵庫に牛乳を取りに来る。おはよう。レンコンの入ったやつ、テーブルに持って行って。朝食をテーブルに並べ終えた里枝が母親に食事の用意ができたと声をかける。初江(山口美也子)は仏壇に向かって手を合わせている。先食べるよ。
悠人が友達2人に遅れて自転車で坂を下っていく。悠人、早く来いよ。3人は空地でボール遊びを始める。近くの神社の石段に坐っていた男がスケッチブックに絵を描いている。
誠文堂文具店。お父さん、先に天国に行ってしまって。自分のこと後回しにして孫のこと考える人でしたもんね。初江がカウンター脇で立ち話をしていると悠人が帰って来る。おばちゃんがケーキ買ってきてくれたよと里枝が息子に伝える。初江が泣き出すと、一番つらいのは、横浜から戻って来た里枝ちゃんでしょとおばちゃんが初江を励ます。来店していた男が画帳を手にカウンターへ。ありがとうございますと里枝が応対する。おばちゃんが男に興味を示し、どんな絵を描いているのか見てみたいと声をかける。見せるほどのものじゃありませんと男は呟く。お客さんを困らせないでと里枝が助け船を出す。
若い男が男に1本の木を前に伐採の仕方を言葉で説明している。まずは木を倒す方向を決めて、倒す側にチェーンソーを使って切れ込みを入れて…。現場監督の伊東(きたろう)ら離れた場所で見守っていた仕事仲間たちから蘊蓄が長いとどやされると、若い男は実際に伐採をして見せることにする。伐採する木の切断する側の膝の辺りの高さにチェーンソーで2回切れ込みを入れて受け口を作る。受け口の反対側に木の中心部を残しながら追い口を作る。追い口にクサビを挿し込み、槌で叩く。木が傾き始め、ゆっくりと倒れていく。
役場の農林課で職員が伊東に新入りの男について尋ねる。谷口大祐ってどんな人ですか? 群馬県伊香保の人。何でこんなとこ来て林業なんてやるんですかね。前があるんじゃないですか? 臑に傷持ってない人なんていないよ。伊東が谷口を庇う。暗いですしね。暗いんじゃなくて大人しいんだよ。
誠文堂文具店。雨の中、男が来店する。こんにちは。里枝が微笑む。男はペンを手にするとカウンターへ。200円です。男が千円札を渡す。レシートは? 800円お返しします。これ。会計を済ませた男がスケッチブックを差し出す。持ってきてくれたんですか? 恥ずかしいんですけど…。里枝がスケッチブックを捲ると、近隣の風景の水彩画が素朴に描かれていた。素敵な絵ですね。1枚の絵は見晴らしの良い神社の前の広場でボール遊びしている子供たちの絵だった。いいなあ。悠人がよくここで遊ぶんですよ。嬉しいなあ。…もし良かったら、友達になってくれませんか。意を決した男が里枝に切り出す。えっ? …ご迷惑、ですよね。子供はいますけど、離婚したんで。…何も知らなかったんで、すいません。知ってたら恐いですよ。里枝が笑う。谷口です。男はヨレヨレの名刺を里枝に差し出す。すいません、名刺が無いんで。里枝は名前と連絡先を紙片に書いて大祐に渡す。いつでも店に来て下さい。何も買わなくていいんで。
料理店。悠人が店主とけん玉をしている。座敷では食事を終えた里枝が大祐と向かい合って話している。悠人には弟がいたんです。2歳のとき亡くなったの。脳の病気で。治ると思ってたんだけど、やっぱり悪性だってことが分かって…。それが原因ですか、前の人と別れたの? 里枝が頷く。向き合い方で揉めて、それからは全部が食い違うようになっちゃって…。治らないって分かってたら、美味しいもの沢山食べさせて、大好きだった動物園にもたくさん連れてってあげたかった…。少しでも生きてて良かったって思わせてあげたかったな…。あんな辛い放射線治療して、あんな苦しい思いさせたのに…。里枝の目から涙が溢れ出す。全部無駄だって分かったとき、もうね…。里枝の手の上に大祐がそっと手を重ねる。その子、名前は? 遼。遼君。悠人が2人の様子を眺めている。
料理店からの帰り道。大祐が悠人と石蹴りをしている。お母さんにパス! 里枝は思いきり蹴ると、近くに駐めてあった車にぶつかる。逃げろ! 里枝が2人とともに走って行く。
夜。車の中で里枝が大祐にキスをする。大祐も里枝を求めるが、大祐は自分を見詰める男の姿を見て、突然泣き始める。大丈夫、大丈夫と里枝が大祐を抱き締める。
朝、台所に立つ里枝がウィンナーを焼いている。娘の花(小野井奈々)に弁当箱の蓋を閉めさせる。食卓では大祐が悠人(坂元愛登)とウィンナーを取り合う。食べ物で遊ばない! 里枝が2人を注意する。食べ終えた悠人が制服の上着を着ながら大祐に尋ねる。ヤマ行っていい? 体育祭の予行演習だもん、意味ないって。訴えは却下され、悠人が学校に向かう。
白い軽トラに乗り込もうとする大祐を里枝が追いかけて弁当を渡す。いってらっしゃい。大祐が農道を走っていると、自転車の悠人に追いつく。クラクションを鳴らす。大祐が悠人に乗るように声をかける。
俺ら奥の方やるから、大祐、ここ終わらせろ。大祐に付いてきた悠人はY字の大きな枝を拾って伊東にパチンコを作ると話している。
大祐がクサビを槌で叩く音が山に響く。大祐は斜面で足を踏み外して転倒する。動けない大祐の上にゆっくりと大木が倒れかかる。大祐、どうした? 大祐が木に挟まれているのを目撃した同僚が叫ぶ。誰か、救急車、早く!
悠人が1人必死で自転車を漕ぐ。公園の桜の木を見上げる。
1年後。自宅で大祐の一周忌の法要が営まれている。読経する僧を囲む家族と大祐の林業仲間たち。僧侶が帰って行ったところへ、1人の男(眞島秀和)が姿を見せる。谷口恭一と申します。この度は弟が大変お世話になりました。

 

武本里枝(安藤サクラ)は離婚を機に、横浜から息子・悠人(森優理斗)を連れて故郷の宮崎に戻り、文具店を継いで、母・初江(山口美也子)とともに暮らしていた。足繁く来店するようになった谷口大祐(窪田正孝)から彼の絵を見せられ、友人になって欲しいと切り出された。寡黙な大祐は生い立ちを語らないが、群馬出身で林業に従事するためにやって来たという。真面目で優しい大祐に悠人が懐いたこともあり、里枝は交際してすぐに籍を入れる。2人の間には娘の花(小野井奈々)が生まれ、悠人(坂元愛登)は中学生になった。大祐は伐採作業中、倒木の下敷きになって急死する。一周忌法要の際、里枝は墓の相談もあり、大祐の疎遠だった兄・恭一(眞島秀和)を招く。閃光をあげた恭一は何故弟の遺影が無いのかと訝しがる。仏壇の中央には大祐の写真が飾られていた。「谷口大祐」は谷口大祐では無かった。里枝は横浜で離婚する際に世話になった弁護士・城戸章良(妻夫木聡)に相談することにする。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

鏡の前に立つ黒いスーツの男の後ろ姿を描きながら、鏡にはその男の顔ではなく後ろ姿が映っている、ルネ・マグリット(René Magritte)の《不許複製(La Reproduction interdite)》の複製画(「不許複製」の複製画!)が冒頭、映し出される。
戸籍のブローカーで、現在は詐欺罪で服役中の小見浦憲男(柄本明)が接見に訪れた城戸章良に向かって、顔を見て小見浦憲男本人の顔だと分かるのかと問いかける。いくら顔を見たところで、その人の名前が分かるわけでは無い。別途紐付けの仕組みがあって初めて、識別可能なのだ。
《不許複製》に顔が描かれないことは、顔の複製が禁じられ、あるいは不可能であることを示す。だが黒いスーツの男の後ろ姿の複製は容易である。そして、顔と人名との結び付きは恣意的なもの過ぎないのなら、後からある顔と複製したい人物の名前とを紐付ければ、結果的に複製したの同じ効果が得られる。

章良の妻・香織(真木よう子)は、豪勢なマンションがありながら、戸建ての住宅を手に入れたいと告げる。もう1人子供が出来たら手狭になるからと。香織は欲求不満を訴えている。そして、章良の宮崎出張を本当かと疑うのは、香織が不倫をしているからである。香織は自分の姿を章良に見ている。すなわち、章良は香織の鏡として機能していることになる。
章良とガラスや鏡に対する映像との結び付きは、章良の存在を暗示する。薄暗い部屋で、電源の入っていないテレビに章良は自らの姿が映る。だが、章良の顔は判然としない。また、後藤美涼(清野菜名)とともに訪れた喫茶店では、ドアのガラスの外に、章良の姿は消えている。

「谷口大祐」は倒木に挟まれて圧死する。巨大な倒木は父そのものである。父から逃れようと策を巡らして来たが、結局は逃れられず、父の影響下で息子は死を迎えることが示される。だが、里枝や悠人を始めとした人々との交流が、それで失われる訳はない。

タワークレーンのイメージは、スクラップアンドビルドの社会であるとともに、上書きによる改竄が横行する社会の諷刺である。戸籍交換もまたそのヴァリエーションの1つに過ぎない。