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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 染谷聡・谷原菜摘子二人展『わだかまる光陰』

展覧会『ないじぇる芸術共創ラボ二人展 染谷聡×谷原菜摘子「わだかまる光陰」』を鑑賞しての備忘録

文房堂ギャラリーにて、2023年1月11日~17日。

国文学研究資料館が芸術家を招いて古典籍の研究に関与してもらうとともに創作活動を支援する「ないじぇる芸術共創ラボ」の成果展。『東海道五十三次』に因んだ地での蒐集物とそれを飾り付ける漆器とを縮小化した風景として作品化した「みしき」シリーズを展示する漆芸家・染谷聡と、自身で創作した物語(「ラッパが鳴っている」)に基づいた絵画や『方丈記』・『長谷雄草子』・『西山物語』に触発されて制作した絵画を展示する画家・谷原菜摘子との二人展。

原菜摘子の絵画《ラッパが鳴っている》と《飛行機Girls》とは、「ラッパが鳴っている」と題された自作の物語に基づいて描かれている。ある日の逢魔時、大阪・梅田の高層ビル群の間から垂直に上空に飛び立つ飛行機群がわらわれと生き物が生じるがごとく現れる。間もなく付近の自動車が猛スピードで発進し衝突すると、自転車やバイクなどの乗り物も同じように次々とクラッシュしていく。街路樹や電柱が倒れ、ガラスが割れ、コンクリートが崩壊する。群衆は逃げ惑う。政府によって終末の到来が告げられ、主人公はニエとなるべく政府関係者によって銭湯に連れ去られる。地下水路から世界の隙間に捧げられたニエによって終末は止まる可能性がなくはないという。ニエに選ばれた女性たちが赤い制服に着替えると、次第に体が飛行機の機体へと変化し始める。「飛行機Girls」は桶に乗せられ、世界の隙間へ向かうべく、地下水路へと放たれた。《ラッパが鳴っている》では、夕暮れ時の空に高層ビル群の中から垂直に飛び立つ巨大な飛行機群が描かれている。手前には道路にいる2人の女性。手前を振り向くのが主人公であろう。右手では自動車がひっくり返り、炎を上げている。彼女たちの前には道路と建設現場の仮囲いとが立ち(道路と建設現場とは藤森詔子の絵画《生きていることをあたりまえと思うな!》においても描かれていた、その共時性を思う)、その向こうにビル群と飛行機群とが見える。道路と仮囲いとは、主人公たちの生きる世界と、墓標であるビル群と魂を運ぶ鳥である飛行機群が象徴するあの世への境界となっている。作家の想像は、大阪の繁華街は梅田が湿地を「うめた」場所であり、近世には墓所であったことを踏まえたものであろう。《飛行機Girls》は赤い制服の(あるいは飛行機と化しつつある)女性たちが銭湯から桶に乗って地下水路へと放たれる場面を描く。おそらくは捨身による衆生の救済である補陀落渡海を下敷きにしているのであろう。地下水路によって冥府へと向かうのは、暗渠化して不可視の存在となった水路を再び可視化するものであろう。此岸と彼岸、光と陰、切断された両者を繋ぎ併せ、あるいは反転させて示すのが作家の狙いではなかろうか。

染谷聡は、石や棒などを飾り付ける漆器「みしき」シリーズを制作してきたが、鉢物の中に器物を箱庭のように盛って東海道の宿場の景観を表わした図譜『鉢山図絵』に触発され、かつて東海道の宿場であった地で拾ったものを用いて一種の「鉢山」としての「みしき」を新たに制作したという。道端に転がっていた石が、それが据えられ、あるいは添えられる漆器によって、山や大樹のような姿を現わす。石にどんな姿を纏わせ、どの様な景観に仕立てるか。石ころが現在の姿を取るまでの悠久の歴史は人の一生など儚いものである。老夫婦より松樹より、路傍の石にこそ高砂の理想を見、寿ぐべきなのだろう。あるいは、断片が文脈から切り取られ流通する社会において、その断片の来歴ないし広がりを想像する余裕を持てとの警句であるかもしれない。