展覧会『望月通陽展「蕪村に寄す」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー椿にて、2023年1月14日~28日。
蕪村の句に取材した染色技法(型染め・筒描)による絵画で構成される、望月通陽の個展。別室(GT2)ではガラス絵とブロンズの作品を紹介する「これだけの世界」も併催。
《斧入て香におどろくや冬こだち》(850mm×590mm)は、裸木に斧を入れる人物と樹上の鳥とを一体的に描いた型染による作品。和紙に表わされたイメージは紺地に白い点が寒々しい冬木立を伝えるとともに、1枚の型紙によって文字通り人、動物、自然が一体に連なるものとして提示されている。斧が幹に突き立てた瞬間、冷涼な世界に木の切れ目から香りが立ち上る。刃先が木を叩いて発せられた音は、鳥を慌てて羽ばたかせる。
やはり裸木に斧を入れる人物を薄墨で表わした《限りある命のひまや秋の暮》(850mm×590mm)では、鳥の代わりに、根元に広がる波紋が描き込まれることで、斧の立てる音が周囲に響き渡る様を表現するとともに、島のように閉じた系としての世界、一種の桃源郷が立ち上がっている。
《ゆく春やおもたき琵琶の抱き心》(790mm×330mm)は、琵琶を抱える人物を薄い茶色の古麻布に型染で表わした作品。 マン・レイ(Man Ray)が《アングルのヴァイオリン(Le Violon d'Ingres)》で女性のヌードの背にf字孔を描いたように、弦楽器と身体には相同性が認められるが、柔らかな曲線で描かれた身体は、添えられた琵琶によって、触れれば音を発する艶めかしさを増幅させられている。
《遊行の柳》(850mm×590mm)は、緑に茶で柳と一体化した人物を描いた型紙による作品。「遊行の柳」は、西行が「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」との和歌を残し、芭蕉が「田一枚植えて立ち去る柳かな」と捻り、蕪村が「柳散清水涸石処々」と詠んだ歌枕。柳の蔭でしばし時を過し、あるいはそうした先人に思いを馳せたて作られた絵画である。葉の散った柳や涸れた清水から却って青々とした柳や満満と水を湛えた泉を想像した「蕪村に寄」せ、作家は繁る柳の姿を描き出した。言の葉の伝統に連ならんと青柳と一体化したのは作者であり、そのような営みを続ける人々の姿でもある。木蔭は桃源郷のようにも見える。
《蔭》(230mm×190mm×350mm)は腕を横に伸ばして輪を作る人物を表わした石膏型によるブロンズ作品。青柳となってその蔭に桃源郷を作らんとする人の姿であろう。直立する身体を陽、腕の作る輪(穴)を陰として、陰陽からなる宇宙を暗示してもいる。
《起き居てもう寝たといふ夜寒哉》(392mm×266mm)は、夜長を象徴する深い藍色を地に母親に抱かれた娘が片目を瞑っている姿を表わした筒描の作品。寝たかと聞かれて寝たと答えるのは言動に矛盾がある。その矛盾を片目を閉じて片目を開けることで示している。オクシモロンに通じる句の面白みを、母親の膝の上で安心しきっている娘が巫山戯る姿に重ねた。なお、「これだけの世界」に展示されているガラス絵《マシマロ》(148mm×98mm)は母親の抱きつく子の姿を母親の顔や乳房の柔らかみで表現していて忘れがたい。
《こがらしや覗いて逃る淵の色》(392mm×266mm)は、頭が器のようになって半分ほど水を湛えた人物が駆け出す姿を表わした筒描の作品。木枯らしの寒さが堪えると、残された人生を思う。淵の水を眺めたのは、コップに半分の水を見てもう半分しかないと見るか、まだ半分あると見るかといった類の問いを自らに投げ掛けるためであったろうか。諦念に達することなく、ジタバタするのが人の性。