可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 諏訪敦個展『Sphinx』

展覧会『諏訪敦「Sphinx」』を鑑賞しての備忘録
成山画廊にて、2023年1月13日~2月18日。

諏訪敦の絵画《Sphinx》(1620mm×2590mm)を展観。

Sphinx》の舞台は、カーテンを閉ざした白い壁の薄暗い室内。白いカーテン越しの明かりに、ベッドの白いシーツの上に仰向けになった裸の男性に跨がる一糸纏わぬ女性の姿が浮かび上がる。男性の手は女性の腰と太腿に軽く添えられ、足を真っ直ぐ伸ばしていることから、女性が積極的に腰を使っているようだ。ガラス越しのためか、画面には縦に幾筋もの線が入り、キスを交わしているように見える2人の顔の辺りも判然としない。何より目を引くのは、足や手が複数描き込まれていることである。
ところで、画題となっているスフィンクス(Sphinx)は、人間の頭、ライオンの胴体、ワシの翼を持った神話上の怪物である。テーベに向かう旅行者に「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足で歩く生き物は?」との謎を出し、その謎を解けなかった者を喰らっていたが、オイディプスは「人間は、幼児のときは四つん這いになり、大人になると二本足で歩き、老年になると杖を用いる」と謎を解き、旅を続けることができたとの物語で知られる。この物語を表わしたギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)の《オイディプススフィンクス(Œdipe et le Sphinx)》(2060mm×1050mm)(メトロポリタン美術館蔵)は切り立った岩山の隘路に立つオイディプススフィンクスが飛び掛かった場面を描いているが、これを90度右に倒すと、《Sphinx》の構図に近くなる。但しモローのスフィンクスの表情は、謎を解かれ戸惑っており、体を反らせたオイディプスが投げる眼差しが力強い。《Sphinx》で男性が女性のなすがままになっている関係性は、むしろスフィンクスの口吻を男性が目を閉じて受け止めている、フランツ・フォン・シュトゥック(Franz von Stuck)の《スフィンクスの口づけ(A Szfinx csókja)》(1625mm×1455mm)(ブダペスト国立西洋美術館蔵)の方が近いだろう。少なくとも《Sphinx》が現代の閨房を舞台に置き換えながらも、19世紀末後半のファムファタルとしてのスフィンクスの流れを汲むことは間違いない。
翻って、《Sphinx》に描かれた複数の手足は、朝・昼・夜の時間経過を重ねたもので、そこから、「朝は4本足、……」という謎で表わされる人間のメタファーなのであろうか。あるいは、モローの《オイディプススフィンクス》で画面下に描き込まれたような、スフィンクスに屠られた旅人の亡骸であろうか。
気になるのは、ベッドの手前に置かれた(ように見える)もう1つの無人のベッドと、その手前のガラス(?)が作る縦の色取り取りの線である。モティーフである男女との距離が鑑賞者から二重に遠ざけられているのだ。それはディスプレイ越しに時間を費やす現代人の姿を映す鏡と言える。そもそもスフィンクスが山賊的存在であり、通行に際して払わなくてはならない代価を象徴するなら、《Sphinx》は現代の人生行路において支払わなければならない代償をこそ表わしているのではないか。その代償とは、鑑賞者がディスプレイを眺める愉楽――そこにはスクリーンがあるだけで実体はない――と引き換えに失う時間である。だからこそ異時同図的(動画的?)表現が採用されたのではないか。《Sphinx》現代人に向けた一種の警句、メメントモリである。