可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 福井篤個展『結晶の島』

展覧会『福井篤「結晶の島」』を鑑賞しての備忘録
小山登美夫ギャラリー天王洲にて、2023年1月20日~2月10日。

巨大な水晶のある風景を描いた作品を中心とする、福井篤の個展。

(略)私たちは性来、イメージの戯れや相対性の論理を玩弄することを好むらしいのである。超越的な気質のひとは、無限の感覚や眩暈の感覚を楽しまずにはいられないのかもしれない。たとえば、「1粒の砂にも世界を見、一輪の野花にも天界を見」たのはウィリアム・ブレイクであったが、この神秘主義詩人の『水晶の部屋』と題された愛すべき詩には、入れ子のテーマが絶妙な形で展開されている。ひとりの少女が詩人をとらえて、彼を水晶の密室に閉じこめ、鍵をかけて封じてしまうのである。

その部屋は きらきら輝く
黄金と真珠と水晶で出来ていた。
そして部屋の中には さらに1つの世界が
1つの美しい月夜がひらけていた。

もう1つのイギリスを 私はそこに見た、
もう1つのロンドンと ロンドン塔を見た、
もう1つのテームズと 岸辺の丘を見た、
そしてもう1つの快適な サリーの四阿を見た。

彼女に似た もうひとりの乙女を私は見た。
その身体は透き通って 美しく照り映え
三重の入れ子になって 組み合わさっていた。
おお、何と楽しくも 震えるような不安!

おお、何という微笑! 三重の微笑が
私を見たし、私は焔のように燃えあがった。
身を屈めて その美しい乙女に接吻した、
すると三重の接吻が返ってきた。

私はいちばん奥の 乙女の形をつかもうと
躍起になって 熱い両手をのばしたが
そとのき 水晶の部屋は砕け散り
泣きわめく赤ん坊のようになってしまった……
澁澤龍彦「胡桃の中の世界」澁澤龍彦『新装新版 胡桃の中の世界』河出書房新社河出文庫〕/2007/p.266-267)

《一番乗り》(970mm×1303mm)は、巨大な洞窟の中に琥珀色の巨大な水晶が聳える姿を描く。奥に開口部があり、そこから黄色い光が洞内ぼんやりと照らし、巨大水晶が透き通る。天井のアーチと敷き詰めたような岩石の列とによって、琥珀の巨大水晶を瞳とする目のような姿が奇観を呈している(因みに《夜明け》(609mm×654mm)は、洞窟の開口部と赤い朝日とが目を形作る、《一番乗り》に近い構図の作品)。それを画面手前の切り立った崖の上に立つ二人の人物が眺めている。

《結晶の島》(1459mm×1620mm)は、琥珀の色味を帯びた巨大な水晶が突き出した白い岩(あるいは砂)に覆われた島とそこにヨットで上陸した4人の姿を描く。暗い群青の空を背に、白い島と巨大な水晶とばかりが光を浴びているかのように眩しく映える。空を映す海も暗いが、島の周囲は島の反映で明るい。帆を畳んだヨットが接岸した近くでは2人が焚き火を囲んでいる。島の巨大な水晶には、それに触れようと1人が近付く。島の右側ではクロールで泳ぐ人の姿がある。《一番乗り》に描かれるような地底に眠る巨大水晶が隆起して地表に姿を表したものらしい。《水晶島》(727mm×1000mm)では、浅い海に斜めに突き出した平坦な草地に巨大な水晶が、砂浜海岸から目と鼻の先に見える。島の崖の部分と砂浜とが、地殻の変動を強く印象付ける。

作家の描く水晶の島々をモティーフにしたと思われる立体作品《水晶盆景》(105mm×180mm×180mm)は、円形の皿の上に水晶の突き出した丘のジオラマを拵えたもの(景色の異なる同名の作品も出展)。島台への連想を誘うイメージは、蓬莱すなわち桃源郷(ないしユートピア)へと連なるだろう。のみならず、水晶島ジオラマは視点の切り替えを促す。すなわち、絵画において点景として添えられた人物が、水晶を眺めるミクロの視点を提供したのに対し、「盆景」はマクロな視点から水晶を眺めさせる装置として機能するのである。それは、《一番乗り》や《夜明け》における「目」のイメージが、微視的まなざしを見返す巨視的まなざしとして描かれていることから明らかである。

《音響気象学》(1303mm×970mm)は、木立に囲まれた人気の無い野原に立つ2人が音楽を演奏している場面を描く。ギターを抱えた人物が見上げる空には灰色の雲が浮かび、そこには青や黄やピンクの星のような瞬きが見える。作家が、地底に水晶を見るのは、空に星を見るのと等しいのである。入れ籠構造を作品の根幹に据えていることを明白にする作品である。

 「宇宙は1つの林檎であり、人間はその種子である」と言ったのは16世紀のパラケルススであったが、17世紀の自由思想家シラノ・ド・ベルジュラックは、その『月世界旅行記』のなかで、新しいコペルニクスの学説に影響された、さらに面白い宇宙論を展開している。シラノによれば、宇宙は1個の林檎であるが、「この林檎もそれ自体1つの小宇宙であって、他の部分よりも熱いその種子は、その周囲に地球を維持する熱を放射する太陽である。そして種子のなかの胚は、このように考えれば、種子の成長を促す塩を温め養う、この小世界の小太陽なのである。」シラノにおいて入れ子説的な宇宙論が、さらに精緻に仕上げられたと見ることができる。
 シラノの例によっても分る通り、17世紀における入れ子説的な宇宙論の登場には、望遠鏡や顕微鏡の発明と切り離しては考えられないものがあろう。よく知られたパスカルの「無限の空間」に対する畏怖にしても、その点では同様である。パスカルの望遠鏡的、顕微鏡的な世界像の一例を『パンセ』から引用しておこう。
「人間にもう1つ、驚くべき不可思議を見せたいと思ったら、これまでに知られている最小の生物を探してくるがよい。たとえばだにには、その小さな身体のなかに、さらに比較にならぬほど小さな部分がある。すなわち関節のある脚があり、その脚のなかには血管があり、その血管のなかには血があり、その血のなかには液があり、その液の中には滴があり、その滴のなかには蒸気がある。この最後のものをさらに分析するのは、人間の力にあまることだろう。かくて、彼の到達した最後の対象が、私たちの問題にしている対象だとしよう。彼はおそらく、これこそ自然のうちで最小のものだと思うだろう。ところが、そうではないのだとパスカルは言う。「この小さな原子のようなものの内部」に、じつは「新たな深淵」があり、「無数の宇宙」があるのであって、「その宇宙がそれぞれ大空を、遊星を、地球を」有しており、「その地球上には諸動物が、そして最後にはだにが見出される」のである。(澁澤龍彦「胡桃の中の世界」澁澤龍彦『新装新版 胡桃の中の世界』河出書房新社河出文庫〕/2007/p.268-269)