可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 菊池絵子個展(2023)

展覧会『菊池絵子展』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2023年2月13日~18日。

紙の上や布の中に展開する世界を空想した絵画14点で構成される、菊池絵子の個展。

作家は、《お気に入りの毛布、田んぼ(秋)、2枚の紙》(297mm×420mm)ではネコの背中と同時に稲穂の実る田を、《ごはん、川、2枚の紙》(210mm×297mm)では釜の中のご飯と水面を、《スケートリンクリビングルーム、5枚の紙》(515mm×364mm)ではスケートリンクとカーテンを、《テーブル、砂浜、2枚の紙》(182mm×257mm)では浜辺とテーブルを、《山道、浴槽、紙(模造紙)》(364mm×515mm)では山道と湯を、いずれも白い紙に見て、なおかつ、解剖台の上でミシンと蝙蝠傘とが偶然の出会いを果たすように、真っ新の1枚の紙の上に複数の世界を作り上げる。対照的に黒い紙に鮮やかなインクで、動物(《夜(動物)》)や夜景(《夜(街)》・《夜(山道)》)や神話(《夜(岩戸)》)を描き出した「夜」シリーズ(いずれも150mm×150mm)によって、作家は、見えるものを見ているのではなく、見たいものを見ているという視覚の性質を明るみに出していることが鮮明になる。

《穴(ピラミッドが見える)》(148mm×100mm)には、セーターに開いてしまったものか、周囲を編まれた白い毛糸で囲われた穴の先に、青空を背にした2基のピラミッドを臨む。《穴(海が見える)》(257mm×182mm)には、生け垣の隙間か、緑の葉の繁みの穴の向こうに水平線を行く船の姿が見える。《穴(小さな家が見える)》(100mm×148mm)ではボタン穴の隙間、その左端のやや広がった部分に草原に立つ青い屋根の赤い家が覗く。《穴(山が見える)》(297mm×210mm)は、紙の上が短冊状に剥がされたところに、白い雲の浮かぶ青空と山並が現れる。「穴」シリーズは日常の裂け目に壺中の天を見る作品群である。

 たしかに、比較しなければ大小はあり得ないので、小人も巨人も、他と比較した上で、初めて小人であり巨人であるにすぎない。絶対的な小人や巨人というものは存在せず、あらゆる小人や巨人は相対的な存在なのである。もしも私たちが夜、眠っているうちに、部屋やべッドとともに百倍の大きさに成長していたとしても、朝になって、その異変に気がつく者はいないにちがいない。というのは、ベッドと私たちとの大きさの関係は、この場合、少しも変化してはいないからである。ライプニッツが証明したように、世界全体が膨脹するならば、私たちの日には、何も変化したようには見えないのである。同様に,世界全体が縮小したとしても、やはり私たちはそのことに全く気がつかないだろう。私たちはハムレットのように、「たとえ胡桃の殻のなかに閉じこめられていようとも、無限の天地を領する王者のつもりになれる」のだ。こんなことは当り前の話で、わざわざ強調するまでもないことのように思われるかもしれない。しかしながら、私たちを陶然たる幻想の気分に誘いこむガリヴァー・コンプレックスは、すべて、この単純な比較の問題、相対性の問題から出発しているのである。
 ハムレットの胡桃の殻は、ただちに私たちに壷中天の故事を思い出させるだろう。後漢の時代に壺公という仙人が、昼間は市中で薬を売り、つねに一個の空の壺を屋上に懸けておき、日が暮れると跳びあがって壺中に入る。これを見て、その秘密を知りたいと思った町役人の費長房が、苦心の末に仙人に許されて、ともに壺中に跳びこむと、そこはすでに小さな壺の内部ではなく、楼閣や門や長廊下などの立ちならぶ仙宮の世界だった、というのである。小宇宙はすべて、大宇宙の忠実な似姿なのであり、私たちの相対論的な思考は、そこに必ずミニアチュールの戯れを発見するのである。ニコラウス・クサーヌスは、これを無限という観点から見て、最大のものは最小のものと一致する、つまり「反対の一致」ということを唱えた。
 「巧みに世界を縮小することが可能であればあるほど、私たちは一層確実に世界を所有する。しかもそれと同時に、ミニアチュールにおいては価値が凝縮し、豊かになることを理解しなければならぬ。ミニアチュールのダイナミックな効果を知るためには、大きなものと小さなものとのプラトン的な弁証法だけでは十分ではない。小さなものの中に大きなものがあることを体験するためには、論理を超越しなければならない」とガストン・バシュラールは『空間の詩学』のなかで述べているけれども、私たちはそれぞれ、想像力の働きによって、いとも容易に論理を超越し、ミニアチュールの世界に跳びこむのである。(澁澤龍彦「胡桃の中の世界」澁澤龍彦『新装新版 胡桃の中の世界』河出書房新社河出文庫〕/2007/p.262-263)

作家はまさに「想像力の働きによって、いとも容易に論理を超越し、ミニアチュールの世界」を表わしている。しかし、作家はその壺中の天という想像の世界へ鑑賞者を誘うだけではない。紙面の一部に「壺中の天」の入口、すなわち「覗き穴」だけを、毛糸(セーター?)、植物(生け垣?)、紙と多様なモティーフで描き出すことで、そもそも穴とは何かという形而上学的問題にも首(手?)を突っ込ませるのである。

 (略)ロウ〔引用者補記:E.J.Lowe, "The Possibitily of Metaphysics: Substance , identity, and Time"〕によれば、穴や影に限らず、正真正銘の実体でさえ、素材を持たないことがあり得る。彼は次のように述べている:

 私の立場のひとつの重要な側面は、個体的実体と実体的普遍の実例とを同一視することであり、その立場は、個体的実体を特定の「実体的形相(substantial form)」と同一視することに帰着する。この実体的形相という見解によれば、形相という概念は、一種の素材としての質料の概念であれ、物がそれによって作られているものとしての質料という概念であれ、質料という概念に必ずしも不可分に結びついているわけではない。したがって、この見解によれば、「非質料的(matterless)実体」――素材なき形相――が存在するという可能性について検討するということは完全に意味を持つ。それは、物理学の素粒子の場合において、そしてさらには、個々の人物(person)、すなわち、「私たち(ourselves)」の場合においても、実際に実現されているかもしれない可能性なのである。

 私は、穴も、ここでロウが主張しているような「非質料的」対象だと考える。それは依存的対象であるために、純然たる実体ではないが、全体的な通時的同一性(耐続性)を保持するという点で「実体的」対象だと言える。そして、穴は、外的境界というそれ自身には属さない「輪郭」によってその通時的同一性を保証されると同時に、無であり、空であるという「非質料性」によって充填可能性というその本質的機能を有するという二重の意味で、まさに「形相約」対象である。それは、そうした機能によって実在する対象ではあるが、まさにそうした機能によってのみ実在性を保証され、その依存性、非質料性によって、かぎりなく「無」に近く、また、「事」に近い位置にある「存在‐物」だとも言える。カサティらのように、無理やり「空間」をその素材として招集するよりも、やはり純然たる形相的対象として穴を規定した方が、穴のこうした本質的特徴をより良く捉え得るのではないだろうか。(加地大介『穴と境界――存在論的探究』春秋社/2008/p.97-99)

作家は、真っ新な紙を舞台に、世界を想像力で充填することの可能性をこそ訴えている。紙とは穴=可能性である。