可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 光岡幸一個展『ぶっちぎりのゼッテー120%』

展覧会『The Second Stage at GG #53 光岡幸一展「ぶっちぎりのゼッテー120%」』
ガーディアン・ガーデンにて、2023年2月7日~3月18日。

洞窟を模した空間で上映される複数の映像を中心とした、光岡幸一の個展。

展示室に白い壁が設けられ、そこに入口として不器用な穴が穿たれている。そこを潜ると照明を落とした展示空間が広がっている。10台ほどだろうか、大小のモニターが床や壁に設置され、あるいは壁面にプロジェクターで映像が投影されている。
それぞれのモニターには順番(ランダム?)に、次々とあるいは同時に映像が映し出されていく。坂道を転がっていく石ころに「コロコロコロ…」という擬音語が重ねられる。また、川面の揺れる光が壁面に映る様子にコーラスのような擬態語が添えられる。風で転がるように飛び回るレシートには、独り言のようなセリフが当てられる。
個々の鏡に手の形や「あ」文字や記号などを表わしたものを取り付けた木枠が天井から吊り下げられ、それがミラーボールのように展示室の壁に手や文字や記号が投影される。暗い空間に浮かび上がる手のイメージ。それは洞穴に残された後期旧石器時代のネガティヴ・ハンドの模倣である。会場は先史時代の芸術の場である洞窟を模して構想されているのだ。何故か。始原の芸術をなぞることにより、表現(=芸術)の意義を探究するためである。

 芸術の起源に還ることによって芸術の未来をひらく芸術の新たな次元、芸術の「四次元」〔引用者註:現実である「三次元」を越えた超現実〕をひらくには、起源の芸術を創り上げた氷河期の狩人たち、彼ら彼女らが磨き上げ、そこから一歩を踏み出そうとした極限の空間認識(「極めて鋭敏な三次元的感覚」)からなのだ。〔引用者補記:岡本〕太郎は〔引用者補記:「縄文土器論」において〕、こう記している――「狩猟期に於ける感覚は極めて空間的に構成されている筈だ。獲物の気配を察知し、適格にその位置を摑むには極めて鋭敏な三次元的感覚を要するに違いない。更に捕える時は全身全霊が空間に躍動しなければならないのである。それによって生活する狩猟期の民族が、我々の想像を絶する鋭敏な空間感覚をそなえていたことは当然であり、それなしにはあのように適確、精緻な捉え方が出来る筈はない」。太郎は、そうした狩猟期に特有の芸術表現の1つの起源として、まさに的確にも「ヨーロッパ旧石器時代」の洞窟壁画、「アルタミラの岩絵」をあげている。(安藤礼二『縄文論』作品社/2022/p.151)

今日に伝わる最古の芸術である「アルタミラの岩絵」は、洞穴の壁面に描かれた動物の写実的な姿である。狩猟の対象を捉える=写すことが創作行為の始原に存在していた。「追う肉食動物と追われる草食動物の背後に、自らを俯瞰する眼を感じさせずにおかない」ように、狩猟とは「見るという行為」であり、「はじめから俯瞰する眼をともなっていた」のである(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.217参照)。

 見るという行為がはじめから俯瞰する眼をともなっていたということ、つまり、見ることが完全に遂行されるためには、現に見ているという行為をさらに見ることが必要とされ、現に見ている以上、いわば「離見の見」(世阿弥)もまたともに実現されていおるのだということは、見るということにははじめから共同性の次元が付与されているのだということを意味している。また、現に見ている次元のひとつ上の次元とでもいうべきもの、それこそ超越論的とでもいうほかない次元が、あらかじめ設定されていたのだということを意味している。これは要するに意識の発生と同じことだが、それこそ言葉が登場し、呪が登場する次元にほかならない。呪は、因果関係の意識として科学の先蹤とされるが、むしろ重要なのはこの「次元の感覚」とでもいうべきものだったように思われる。それを、「見えないものへの感覚」と言い換えてもいい。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.217-218

「俯瞰する眼」とは「超越論的とでもいうほかない次元」であり、「意識の発生と同じこと」である。

 人は原初的な母子関係において、母の眼から見た自分を発見し、それを受け入れる。言語は、母が子の身になって唱えた言葉を反復することによって個体的に発生するが、それは他者であるもの――つまり母から見た子――を自分として引き受けるということである。言葉を反復することは、他者になることなのだ。他者にならなければ自己にはなれない。そしてこの入れ替えにあたって人は、他者と自分を同時に俯瞰する眼を習得する、身につけてしまう。
 こうして人は、つねに、自己を俯瞰する眼とともにあるということになる。というより、自己とは、自己の身体などではない、この、自己を俯瞰する眼のことなのだ。そしてこの自己を俯瞰する眼は、自己に憑くこともできるが、他者に憑くこともできるのである。人間だけではない、自然物にも、場合によっては観念にも憑くことができる。
 観念にも憑くことができる。そして、憑くことができるということは、実在していると感じることができるということなのだ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.423)

写したり繰り返したりするためには見ることが前提とされる。見ることは自己を俯瞰することであり、実は自己そのものである。
翻って、石ころやレシートをカメラで捉えた映像作品は、作家がそれらに憑くためであった。だが、見るだけなら、人間以外の動物にでも可能である。そこから人間以外の動物にはできない表現(=芸術)を可能にするものが、二足歩行によって自由となった口と手の(連関による)働きである。

 われわれは「口」を通して言語を発することができ、「手」を用いてさまざまなかたちを創り上げることができる。「手」を用いて創りあげられるかたちは、「文字」だけに限らない。近代に至るまで、「文字」は少数のものが独占する権力の手段であった。ただ「文字」だけが、表現器官としての「口」のもつ可能性と、表現器官としての「手」がもつ可能性を、、最も貧しいかたちで1つにむすび合わせるものだった。「口」から発せられ最も有効に区別される「音」が、「手」で描き、やはり最も有効に区別される形とむすび合わされる。それが「文字」なのだ(その典型がアルファベットである)。(略)
 しかし、「口」は明確な意味を語るだけでなく、意味にならないさまざまな感情をそのまま発することができる。泣き、叫び、怒り、喜び、そして歌うことができる。「手」もまた明確な意味に形を与えるだけでなく、さまざまなものを――外界に存在し現実に見えるものだけでなく、内界に存在し現実には見えないものもまた――さまざまな手段を用いてあらわすことができる。(略)「口」と「手」は連関し、しかもそれぞれが潜在的には無限の可能性を秘めている。(略)
 (略)
 栄養摂取の器官である「口」とそのための移動を可能にする器官である「手」をもっていることによって、そうした身体の体勢から逃れられないことによって、当然のことながら、人間もまた動物の一種なのである。バタイユがつねに強調するように人間は動物性を逃れることができず、ただそれを抑圧するだけなのだ。しかし、人間は唯一、「口」を栄養摂取の機能を果たす器官としてのみから、「手」を移動のための機能を果たす器官としてのみから、解放したのである。「口」で語り、「口」で歌い、「手」で描き、「手」で造ることを可能にしたのである。(安藤礼二『縄文論』作品社/2022/p.167-169)

映像作品において、石の転がる擬音語や水面の反射の擬態語やレシートの独り言を口にするのは、石や水面やレシートに憑く(石や水面やレシートの立場に身を置く)ためである。それこそ人間が人間以外の動物から区別されるメルクマールである表現(=芸術)そのものなのだ。
そして、洞穴は、芸術を生み出す母胎のメタファーである。壁面に設置されたキックペダル。作家が天井からぶら下がるロープに掴まって、勢いを付けてフットボードを蹴ると、ビーターが壁面に打ち付けられる。それは母胎内で胎児が蹴る動作を模倣するものであり、その響きは芸術誕生の先触れとなる。