可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『仲條正義名作展』

展覧会『仲條正義名作展』を鑑賞しての備忘録
クリエイションギャラリーG8にて、2023年2月16日~3月30日。

様々なポスターを中心に、資生堂のPR誌『花椿』や資生堂パーラーのロゴとパッケージデザイン、銀座松屋東京都現代美術館を始めとするロゴなど、仲條正義(1933~2021)のデザインを展観。「デザインの根本は矛盾である。矛盾を否定しない。」など随所に言葉も鏤められている。

平安京をテーマとしたポスターは、山と塔を背に太鼓橋(五条大橋?)を渡り来たるマネキンのような人形(ひとがた)を描いた作品である。擬宝珠を載せた欄干は3本のフィルムのようで、それが手前に向かって送り出されてくる。右足を前に踏み出し、左足は急傾斜の橋の蔭となって見えない「マネキン」は、欄干の「フィルム」の送り出しに併せて画面手前に迫り出してくる。「マネキン」から突き出した左手は夜明けに上る有明月をがっしりと摑み、「マネキン」の右側後方のm字型の鳥は、朝日を浴びて飛び立とうとする。だが、鳥は夕方山の塒に向かって飛んでいるのかもしれず、マネキンは夕陽を背に家路に着くのかも知れない、「フィルム」のような欄干は巻き戻しである可能性を否定できない。仲條正義の「デザインの根本は矛盾である。矛盾を否定しない。」という言葉を象徴する作品のように見受けられる。また、イメージは中央で破断し、鳥の姿はそのために消えかかり、「マネキン」の上半身と下半身とがズレている。この暴力的な紙の継ぎ方は、やはり「完璧には生命はない。」という作家の言葉を体現している。
女性の顔をテーマにした「MADONNA」の連作で描かれる女性の顔もマネキンのようで、8の字で潰されていたり(《MADONNA BLUE》)、仮面のようなもので覆われていたり(《MADONNA,OTHER》、顔の一文が引き剥がされていたり(《MADONNA PINK》)する。
不穏さの魅力は、商業的なポスターにおいても発揮されている(例えば、1995年のパルコのグランバザールのポスター)。
作品の底流としての不穏さは、作家がデザインの根本に見据える矛盾から生じるものであり、デザインの「今日的な存在感」に対する信頼と相俟って、作家の求める作品の生命を実現するものになっている。そのような、「非連続の連続」や「永遠の今の自己限定」をキーワードとする西田幾多郎の生命哲学にも通じる生命の必然的矛盾への洞察が、作品の強度を生み出しているのではないか。

 「絶対無」以降の西田〔引用者補記:幾多郎〕の展開とは、どのようなものでしょうか。私は『無の自覚的限定』における「無」の議論の変容(「非連続の連続」や「永遠の今の自己限定」という概念)に、その最も重要な「転回」点を見てとりたいとおもいます。「無」は「内包」の平面的な極限として記述されるものではもはやなく、「非連続の連続」として、いわば有限者である「個物」が成立する現場に、水平的に入り込むように配置なおされるのです。そのことは、「他者」や「死」という、「生の哲学」の思考圏からはさしあたり無縁であった事象が、この時期から実質的に論じられ始めることに結びついています。
 「非連続の連続」や「永遠の今の自己限定」などに固有な議論は、無限な「内包」を、有限者の基底に垂直に探るという議論の枠組みそのものの問い直しです。あるいはその問いの、トポロジー的な変容といってよいかもしれません。垂直化する問いの中では、すでに論じたように、一方では「潜在性」が「現実化」していく、「差異=微分」的な仕組みが、他方では「内包」の深度を徹底化し無底に到ることが重要でした。しかしこの段階では、むしろ有限的なものの直中に、無限的な「内包」が、破断のように入り込むことがとりあげられます。「内包」性の極限は、実在の基底に置かれるのではなく、実在が有限的な存在として成立することにおいて、パラドックス的な矛盾の働きとして介在するのです(それは「媒介者」の発想による田辺の西田批判を受けての、西田なりの「媒介」の設定という意義があるとおもいます、西田はあくまでも田辺的な「種」の実在の立場には立たず、「種の生成を論じるのですが)。
 「非連続の連続」とは、まさにそうした矛盾的な生成を示します。そこでは「内包」的な無限が、それ自身としては「非連続」の切断として、有限の直中に姿を現します。「永遠の今の自己限定」でも、問われているのは今(有限)が永遠(無限)を溢れるように含み込むという、同種の事態です。そうした破断とは、まさに「他」や「死」という生の切断の様相において現れます。死を含む生、他に「個物」というテーマが、西田の思考において中心かされていきます。「個物」とはもはや、「内包」的な「潜在性」の現実化によって生じるものではありません。「個物」とはそれ自身が、潜在性と現実性、内包と外延、他者と自己、有限と無限の境界として(つまり内即外、内包即外延として)、その交錯のダイナミズムにおいて描き出されるのです。それは、後期の西田の主要概念である「行為的直観」、「そして絶対矛盾的自己同一」の原型ともいえるものでしょう。(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022/p.237-238