可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『引き寄せられた気配』

展覧会『ACT(Artists Contemporary TOKAS) Vol.5「引き寄せられた気配」』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、2023年2月11日~3月26日。

不可視の存在の知覚化をテーマとした企画。別々の画面やイメージの断面を繋ぎ併せた絵画を制作する鮫島ゆい(1階・スペースA)、紙に穴を空けることで天体を表わす須藤美沙(2階・スペースB・倉庫)、映画の場面を絵画にした海老原靖(3階スペースC・D)の3名の作家の作品を展観。

以下では、1階スペースAに展示されている鮫島ゆいの作品について紹介する。

《呼び継ぎ(2つの力の和睦)》は、大小2つの三角形の画面で構成される。大きい三角形の画面には、キーホルダーのように金具が取り付けられた頭像、植物、それらを載せた棚が描かれ、その他の部分では赤褐色や緑、灰色などで抽象的なイメージが混淆している。小さな三角形の画面は半分近くを白い絵具が塗り潰し、残りの部分には得体の知れない何かが凝集している様が描かれる。大小2つの画面は、曖昧模糊としたモティーフによって接続されるのみではない。画面の縁と平行な線や白い絵具による面といった幾何学的形態の鋭利さ、及びそれと不明瞭なモティーフとが生み出すコントラストが、大小2つの三角形の画面を繋いでいる。画面に三角形を採用したのは、それらが全てではなく部分に過ぎないことを訴える。画面が断片化されるからこそ、逆説的に断片同士の繋がりが求められる。それが陶芸技法ではない、作家の提示する「呼び継ぎ」であろう。

《呼び継ぎ(memento/blue)》は同題作品が2点あり、三角形の大きい画面の作品と、不等辺四角形の小さな画面の作品とから成る。《呼び継ぎ(2つの力の和睦)》と異なり1組で作品とはされていないが、三角形の大画面(二等辺三角形の頂角を右に底辺を縦に設置)と不等辺四角形の小画面とが、実在しない正方形のピースのように展示されている。作家はアルフレッド・ワトキンス(Alfred Watkins/1855-1935)のレイライン(Ley lines)に関心を持ち、「〔引用者補記:アルフレッド・ワトキンス〕氏がその見えない直線で結ばれた各遺跡の『間』にある関係性を示そうとした行為と、現在私が行っている、別々の画面やイメージの断片を繋ぎ合わせるようにひとつの作品として構成する手法に親和性を感じ、テーマとして選定した」(本展ステートメント)という。異なる作品が生み出す不可視の形を鑑賞者に対して幻視させるのだ。

上記の3点に加え、矩形の4枚の画面で構成される《呼び継ぎ(古い直線路)》、台形状の《呼び継ぎ(アトランティスの船)》、不等辺四角形の《呼び継ぎ(灯火とシヌヘ)》の「呼び継ぎ」シリーズには、いずれも幾何学形の空白がある。この空白は、鑑賞者に空白を埋めるべく想像を促す装置である。

 不可視の群島地図を描く人々――。
 ひたすら、それらの人々の記憶とイメージャリー(心像)のなかに明滅する不可能にして希望の地図のなかを、その描線の震えるような屈曲と逞しいインク染みの隆盛をなぞりながら歩み、遊泳し、走ってきた。浦浦のたたみ重なる汀線にはとりわけ注意を払い、泡立つ水が現われれば海中へと潜行し、岩礁が立ちはだかれば想像力の翼を装着して一気に飛行した。火山鳥の噴煙が見えれば、その色と臭気をたしかめながら上空を旋回し、港の埠頭の物陰でささやかれるほの暗い声調を宿した混淆言語には心して耳を澄ませた。
 そこにはひとつの信念とも言うべき、あるヴィジョン(視線)の訪れがあった。歴史によって裏切られつづけた者たちの希望は、歴史の時空を反転させた場所に出現する新たな地理学のなかにしかないかのだ、という。そして詩や物語によって媒介されたその地理学が浮上させる地図=海図とは、いうまでもなく、これまで単一の「歴史」という制度が不分明の地図的空白を征服行為によって埋め、科学的精査ののちに更新してきた因習的な世界地図の座標上には、けっして存在しえないものだった。それぞれの流儀によって群島地図作成者たちの創造的な手が描き上げたすべての海岸線の筆致には、彼ら/彼女らの情動と記憶とが、具体の声と身体とが、ひとつの精微な像の現われとして示されていた。地球は水球へと姿を変え、その海原の上に、自在な筆致で、新たな意志と感情による海岸線が描き出されていったのである。これを「群島のカルトグラフィー(地図作成法)」と呼ぶことはできないだろうか? カマウ・ブラスウェイトが「統一は海面下にある」と言い、エドゥアール・グリッサンが「群島は泡を立て、我々はその泡に住む」と語るとき、彼らの意識の傍らには、旧来の歴史地図の表層的構図を払拭した真新しい群島地図の断片が、たしかに置かれていたのである。
 それらの群島地図はしばしば断片的で、豊かな空白が随所に存在した。かつての歴史的な世界地図の空白が、未発見の大陸の一部として、物理的にも精神的にもやがて征服されるべき土地であり、最終的には国家的帰属を画定されねば済まされない領土であったとすれば、群島地図における空白はまったく別の意味をもっていた。そこでの空白はむしろ大いなる可能性だったのだ。しかもそれは来るべき征服と領有の可能性ではなく、まったく逆に、所有と帰属の観念を抛擲し、ひとつの認識的空白と別の認識的空白とをそのままで創造的に接続し交差させるための、未知の想像カと詩学の拠点として与えられた可能性だった。(今福龍太『群島-世界論[パルティータⅡ]』水声社/2017/p.387-388)

「呼び継ぎ」シリーズの空白とは、正しく「所有と帰属の観念を抛擲し、ひとつの認識的空白と別の認識的空白とをそのままで創造的に接続し交差させるための、未知の想像カと詩学の拠点として与えられた可能性」である。

キャンヴァスに白い絵具を塗布してを人形(ひとがた)に成形したものを古道具に吊した立体作品《絵の木乃伊》は、絵画とは過去と接続した現在を未来へ送り込むという点で実は木乃伊に他ならないことを示すとともに、集合的歴史意識の象徴でもある。そして、粘土と砂とで構成された楼閣《砂の代》は、粘土の永続的性格と砂の一時的性格とを同時に存在させるとともに、人間の諸経験を収斂させる依代として提示されている。

 「伝統と個人の才能」と題された1919年執筆のエッセイにおいて、エリオットは、感情を持った近代的主体の個性の反映として読まれてきた詩の言語を、ひとおもいに彼が「伝統」と呼ぶ集合的な歴史意識の地平に立った表現媒体へと転換しようとする。

伝統はまず第一に(……)歴史的意識を含んでいる、この歴史的意識は過去が過去としてあるばかりでなく、それが現在にもあるという感じ方を含んでいて、作家がものを書く場合にほ、自分の世代が自分の骨髄の中にあるというだけでなく、ホーマー以来のヨーロッパ文学全体とその中にある自分の国の文学全体が同時に存在し、同時的な秩序をつくっているということを強く感じさせるのである。この歴史的意識は一時的なものに対する意識であり、永続的なものに対する意識であり、また一時的なものと永続的なものとをいっしょに意識するもので、そのために作家が伝統的になれるのだ。またその歴史的意識によって作家は時代の中にある自分の位置、自分の現代性をきわめて鋭敏に感じとることができるのである。

ここで語られている「歴史的意識」「永続的」「時代」「現代」といった概念の結び合いの構図は、驚くほど精確に、すでにみたベンヤミンの歴史哲学が指向していたアクチュアリティの思想と響き合う。エリオットにとっての詩人は、まさにベンヤミンが知的星座を発見すべき編集者に要求したのと同じように、現在に憑依する永続的な過去の時間をみずからの意識に捉えることのできる能力の持ち主だった。そうだとすれば、詩人の言語がめざすべきは自己の個人的表現への指向性ではなく、歴史意識が現在において具現化されるときの、ある種の神話的・集合的な体系性にぼかならなかった。文明の崩壊や歴史的災厄への深い予兆を感知するシャーマンのような集合的感受性を、エリオットはみずからの詩的言語に受胎させようとしたのである。エリオットはさらにつづけて書いている。

詩人がもっているのは表現すべき「パーソナリティ(個性)」はなく、特殊なメディウム(媒体)――これは媒体とおうだけで個性ではない――で、その媒体によって印象と経験とが特別な思いがけないしかたで結合する(……)。詩は、実際に活動している人にはとうてい経験と思われないような多数の経験が集中したものであり、集中の結果生まれたものである。しかもその集中は意識したり計画したりして行なわれるのではない。

媒体としての詩人が、無意識のうちに人間の諸経験が収斂する交点に立っているという真実……。ここで「媒体」mediumiと名づけられているものを、さらに一歩踏み込んで解釈すれば、それを「霊媒」mediumと訳し直すことはけっして不当ではないだろう。霊媒のようにして人間的経験の歴史をみずからに憑依させることのできるこの能力こそ、エリオットのいう詩人の天分であり、それは個人の才能というよりは、むしろ神秘的な過程によって授けられた内的な贈与giftにかかわる実体であるというほうが当たっていた。(今福龍太『群島-世界論[パルティータⅡ]』水声社/2017/p.304-306)

作品がどのような形態をとろうとも、それが芸術である以上は必ず詩情がある。鮫島ゆいの作品には、「霊媒のようにして人間的経験の歴史を」「憑依させることのできる」エリオット流の詩情が見出される。