可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『FACE展2023』

展覧会『FACE展2023』を鑑賞しての備忘録
SOMPO美術館にて、2023年2月18日~3月12日。

年齢・所属を問わない公募形式の展覧会「FACE展」の第11回展。応募作品全1,064点から入選した81点(うち、グランプリを初めとする受賞作品は9点)を展観。

グランプリ受賞作品、吉田桃子《Still milky_tune #4》(1120mm×1060mm)は、半透明のポリエステルの布の上半分にアクリル絵具で河川敷に立つ3人の少年の顔をやや俯瞰した白昼夢のような印象の作品。画面の下側には、上側のイメージが溶け出していくように、モティーフ――青や茶の髪、赤や黒の服、緑の草――に対応するアクリル絵具が垂らされ、背後の川面とともに無常を強調する。あるいは、絵具の垂れは、儚い存在を画面に定着しようとしながらも果たせない絵画の遅さであり、その遅延が生む情念である。そこに絵画の不可能性を可能性へと反転させる詩情がある。
植田陽貴《Whispering》[優秀賞]は、背の高い針葉樹が鬱蒼とする森の入口に佇む、それぞれが灯りを手にした男女を描く。手前に開けた草地もまた森の蔭となって暗いが、2人の灯りに照らし出されている。奥に向かい高度が上がるのか、高く聳える樹影は霧の中に溶け込んでいく。男女は、森=闇の音を聞き分けて鑑賞者を導く存在なのか、あるいは鑑賞者自身が森=闇を象徴する男女に対して注意を促すものなのかは判然としない。横方向に走らせた筆触によって輪郭を暈かされた樹木は、湿度の高い世界を表現し、長谷川等伯の《松林図屏風》の世界にも通じるようだ。
ヨシミヅコウイチ《顕現(仮)》[優秀賞]は、クラフト紙の茶色に画面に紺と白のアクリル絵具でパイプから噴出し波を生む水とその中に現れた無数の目とを描く。葛飾北斎富嶽三十六景 神奈川沖浪裏》と岡本太郎《森の掟》と靉光《眼のある風景》を足して3で割った戯画のような印象。海に沈み行く世界で目だけになった人間が濁流に呑まれるアポカリプスであろうか。

芦田なつみ《NO, title.》(1940mm×1303mm)は、建物密集地に出来た空地を描いた作品。赤褐色で塗られた空地の地面の中央に黄緑の草が大きく葉を拡げている。空地の隣の建物のオレンジ色の壁面には、隣接していた家の形が残され(いわゆる「トマソン」の「影タイプ」)水色で塗られている。補色による大胆な塗り分けによって、家=人の存在の儚さと草=自然の生命力の獰猛さとの対照が鮮やかに示されている。
すずきしほ《夜空のカーニバル》(1620mm×1940mm)は、暗緑色の夜空を背景に両腕を拡げる淡いピンク色の妖精(?)が描いた作品。つぶらな目の「妖精」の身体にはピンクや青などの筆触がぽつぽと入れられている。その背後(周囲)にはレモン色のクッションのような不定形の塊と、鮮やかなピンク色が広がっている。上部の「夜空」に瞬く黄色い星にはラメが煌めく。「妖精」自体が星なのかもしれなず、その抱擁力が印象的。
立川瑞季《オデン》(1620mm×1300mm)は、小村雪岱の『お傳地獄』挿絵のお傳の姿を、淡い闇の中に天井灯と火鉢(ごみ箱?)とともに構成した作品。お傳、天井灯、火鉢(?)がそれぞれ描き分けられつつ位置関係も今一つ明瞭でないが、お傳の目から天井灯の引き紐の先、さらに火鉢(?)へという視線がモティーフを一直線に貫く。
戸田麻子《Calling/BODY》(1300mm×1620mm) は、池と築山、さらにその奥に広がる森を背に芝生でポーズを取る3人の女性――中央の無花果を持って立つ女性、右側の椅子に坐る女性、左側の立て膝の女性――を描く。お互いは天から垂らされた糸を絡み合わせている。左側の女性が天を指差し、右側の女性が中央の女性の腹を指差すとともに、一種の受胎告知のようだ。女性たちに絡み付く糸が池畔(蓬莱山であり州浜でもある)に立つコウノトリにも渡されていることから、少なくとも妊娠をテーマにしたものであることは疑いない。
樋口愛《葉っぱ童子》(1620mm×1620mm) はピンクの画面の中央に1枚の葉とともに童子の姿を、仙厓の禅画に通じるような略画で表わした作品。画面右下にはその姿を眺める少女(?)の姿がほとんど見えないくらい幽かに描かれている。左側には「木」に赤い糸を結ぶために輪にして「通」す様子が描かれ、木と童子の間には青、緑、木の絵「具」を塗り、左下には「ち」の文字、右下には"ai"が配される。「葦手」のように画面に作家の名前を散らしているのかもしれない。
平松絵美《雨は天から横に降らず》(1120mm×1940mm)は、枝に吊された煮干しと松毬、その下の草原に置かれた空瓶などから、雨乞いの儀式を描いた作品だと分かる。性善説を訴える画題からすると、右から近付く鴉が物欲の象徴であり、ボーダーの衣類は後天的に横縞=邪な心を身に付けることのメタファーであろう。
真柴毅《潮風》(1621mm×1303mm)は、赤や青や黄で彩られた切り立つ岩の上に日傘を差して立つカジュアルな出で立ちの人物を描く。遠景の岬は緑に覆われている。手前と奥の岬との間、あるいは空はキャンヴァスをそのまま活かしている。「潮風」と冠しつつ敢て海(海面)を描かないのは、作品を潮騒や潮香までも想像で補わせる装置として機能させるためかもしれない。、
もりかわさく《窓からの眺め》(1943mm×1304mm)は、画面全体を窓に見立て、オレンジ色の窓枠の向こうに佇む裸婦を赤と緑の輪郭と淡いピンクの幅広の筆致とで表わした作品。とりわけ幅の広いオレンジ色の窓枠が会場で目を引く。絵画が窓であるとともに、女性の伏せた眼差しが――マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)の通称《遺作》に通じる――窃視の装置であることを明るみに出す。
山谷菜月《Amorous》(1303mm×1620mm)は、銀のプレートに載せられたストロベリー、ラズベリー、ブルーベリーを画面一杯に描く。一見すると、写実描写に徹した、水気があり艶やかな果実に目が奪われる。どこか粘着質な印象が拭えない。果実同士がぶつかり合い、潰れて赤い汁を滴らせる様子などが次第に目に入ってくると、これらが画題の示す通り、肉感のメタファーであり、それが粘着質の印象の原因であったことが分かる。六無《三狸図》(1456mm×1848mm)には、黄褐色の画面左側に丘の上で風に吹かれる3匹のタヌキを、1匹ずつ上、斜め、横と3つの視点から描くことで、鑑賞者に視点をしたから上へと導く。さらに一番上の狸が横に向くことで、鑑賞者の視点が右に引っ張られる。眼下に連なる丘には風が渦を巻いて流れていく。画面右手に5本の並行の水色の線を配することで、古画の趣の画面を現代へと接続してみせる。
和田咲良《あっちにいる》(1420mm×1820) は、円形のプールにいる男女と傍らに立つ犬とを描いた作品。男女と犬とが鑑賞者の背後に向けて視線を注いでおり(なお、男女と犬とで眼差しが向けられる場所が異なる)、鑑賞者は画面の外へ注意を向けざるを得ない。プールの形、プールのタイル、柵、街路樹(針葉樹)などに幾何学形が繰り返し現れる。プールに浸かる男女は輪廻の中にあり、そこからの解脱を志すものか。