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芸術鑑賞の備忘録

映画『アラビアンナイト 三千年の願い』

映画『アラビアンナイト 三千年の願い』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のオーストラリア・アメリカ合作映画。
108分。
監督は、ジョージ・ミラー(George Miller)。
原作は、A・S・バイアット(A. S. Byatt)の小説"The Djinn in the Nightingale's Eye"。
脚本は、ジョージ・ミラー(George Miller)とオーガスタ・ゴア(Augusta Gore)。
撮影は、ジョン・シール(John Seale)。
美術は、ロジャー・フォード(Roger Ford)。
衣装は、キム・バレット(Kym Barrett)。
編集は、マーガレット・シクセル(Margaret Sixel)。
音楽は、トム・ホルケンボルフ(Tom Holkenborg)。
原題は、"Three Thousand Years of Longing"。

 

アリシア・ビニー(Tilda Swinton)が機内で本を読んでいる。彼女の脚は震えている。
アリシアと言います。私の話は事実です。お伽噺として話した方が信じてもらえるかもしれません。昔々、人々が鋼鉄の翼で空を飛び、足ヒレを着けて海の底を歩き、手にしたガラスのタイル越しに空中からラヴソングを手に入れた頃、まずまず幸せで孤独な女性がいました。孤独であったのは好んでのことでした。幸せでした。それというのも研究者として食べていくことができていたからです。研究のテーマは物語でした。人類のあらゆる物語に共通する真理を探究する物語論学者だったのです。学術調査のため年に1、2回は思い切って見知らぬ土地に出かけました。中国、南洋、地中海東部の永遠の都市。そこには物語についての物語を語るために研究仲間たちが集まりました。
アリシアを乗せた飛行機がイスタンブールに到着する。人のごった返すロビーで彼女が荷物を載せたカートを押していると、背の低い人物(Sarah Houbolt)が突然こっちだと言ってカートの持ち手を摑む。何をしてるんですか? 離してもらえます? イスタンブールの神秘だ。アリシアを見詰める。グハン・リファト(Erdil Yasaroglu)がアリシアを見付けて名前を呼ぶ。その声に気を取られた隙に、アリシアに神秘を訴えた存在は人混みの中に姿を消した。グハン教授はブリティッシュ・カウンシルのアミーナ(Sabrina Dhowre Elba)らとアリシアを出迎えた。
バンで移動中、アリシアは空港で自分のカートを押す男を見たかグハン教授に尋ねる。どんな人? 背が低くて、ピンクの襟の付いた羊の皮のジャケットを着てたの。興味深いね。触れた手は熱かった。麝香の香りがしたわ。たぶん妖精じゃないかな? 違法なタクシー・ドライヴァーの方があり得ますよ。香水を付けすぎるのよね。運転手や同行の女性が言う。教授は妖精の存在を信じるの? 妖精の存在を信じなきゃならない人は存在すると思いますよ。私のこと? 妖精、幽霊、宇宙人、何だって役に立ちますよ。
一行がホテルに到着。アミーナはホテルからのサプライズがあると言う。グハン教授がアガサ・クリスティが『オリエント急行殺人事件』を執筆した部屋だと説明する。部屋に入り1人になったアリシアは溜息をつく。
物語論の冒険」と題されたシンポジウムの会場は満席。舞台上のグハン教授が聴衆の笑いを取りながら語っている。では、一体どのように雷の力を説明すればいいでしょう、気象学的なデータを測定、算定する手段がないとして。春夏秋冬、季節の変化を説明する事なんてできるでしょうか、地球が公転していてなおかつ地軸が傾いていることを知らなければ。あらゆることは謎でした。季節、津波、疫病。物語を用いる他にできることなどないのです。ステージのスクリーンにはグハン教授の説明に合わせて関連する映像が表示される。ビニー教授がこれまで理解を促してきた通り、かつて物語は人々を狼狽えさせる事柄に首尾一貫した説明を与える唯一の方法だったのです。教授がまさにおっしゃる通りです。舞台に坐っていたアリシアが引き取る。驚異や惨事の背後にある理解の及ばない力を名付けたのです。アリシアの目に、客席の背後に幽鬼のような存在がぼうっと浮かび上がる。お互いに物語を語ることで…。今度は客席の前方に坐る異装の妖精(Seyithan Özdemir)がはっきりと見えた。グハン教授が引き取って説明を続ける。お見せしましょう。私達は具体的な力強い共感できる神々の物語を語りました。ギリシャからローマであれ、北方であれ、あらゆる文化、あらゆる神話にこれまでずっと存在してきました。ゼウス、ポセイドン、アテナ、ソーなどの系譜を引く表現はが今日でも目にすることができますね。数々のアニメ・キャラクターがスクリーンに表示される。疑問は残ります。目的は何なのか。今でも私達が物語を必要とするのは何故なのか。妖精の姿に言葉を詰まらせるアリシア。神話の存在とともに科学が存在しますからね、とグハン教授が言葉を継ぐ。神話はかつて知っていたものです。科学はこれまでに分かっているものです。早晩、私たちの創造した物語は科学的説明に取って代わられます。丹精な科学に。あらゆる神々や怪物は本来の目的を失い、メタファーへと変じることになります。妖精がくだらんと言って口を開けると、アリシアを呑み込んでしまう。

 

ロンドン在住の物語論研究者アリシア・ビニー(Tilda Swinton)はシンポジウム「物語論の冒険」に参加するためにイスタンブールへ飛ぶ。空港のロビーで背の低い妖精(Sarah Houbolt)に遭遇したと出迎えたグハン・リファト(Erdil Yasaroglu)に訴えるが、精霊を信じなければならない人がいることは信じていると軽く遇われる。シンポジウムでグハンとともに講演中、アリシアは客席に長身の妖精(Seyithan Özdemir)を見る。世界の説明は科学に取って代わられ、古から語り継がれた物語はメタファーに過ぎなくなると説くアリシアは、怒った妖精の大きな口に呑み込れてしまう。公演中に卒倒したアリシアにグハンが医師の診察を受けるよう勧めるが、アリシアはその必要はないと4000もの店が軒を連ねるバザールに向かう。アリシアは立ち寄った骨董品店の奥で雑多に積まれた磁器やガラス器、貴石の山から青と白の縞の小ぶりな瓶を見付ける。熱で歪んでいたが、何か謂れがあるのだろうと好奇心に駆られたアリシアはそれを求めた。翌朝、身繕いの序でに小瓶の汚れを刮ぎ落としていると、瓶の蓋が開き、紫と赤の煙が吹き出すと、巨大な妖精(Idris Elba)が姿を現した。妖精は3つの願いを叶えると申し出るが、アリシアは訝しむ。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

アラビアンナイトの物語を華麗な映像で描きながら、現在の世界と地続きにしたファンタジー
物語論研究者アリシア・ビニーが講演で滞在したイスタンブールのバザールの骨董品店で偶々入手したガラス器。そこに閉じ込められていた妖精(Idris Elba)がアリシアの前に姿を現し、彼女に3つの願いを叶えると言う。
アリシアは少女時代に女子寮で孤独を慰めるためにエンツォというイマジナリー・フレンドを持ち、ノートに記していた。だがその行為を馬鹿馬鹿しく感じたアリシアはある日ノートを焼却してしまう。エンツォは永遠に失われてしまったと語るアリシアに、妖精はそれでも私がここにいると慰める。
アリシアが何故瓶に閉じ込められていたのかと尋ねると、自らの女性に対する欲望を抑えきれなかったために3度も閉じ込められてしまったと経緯を語り始める。
アリシアの語りが、妖精の語りを含み持つ。妖精の物語は劇中劇である。そして、アリシアのノート=物語とはすなわちアリシアの発見するガラスの小瓶=物語に等しい。さらに、アリシアの物語を描く映画=物語。そこに入れ籠の関係がある。

 シェイクスピアが多用した劇中劇という方法にしても双子の主題にしても、実際には現実離れしている。つまり、現実には起こりそうもない。にもかかわらずそれが受け入れられるのは、人間というものの仕組みにおいて、原理的にそれがありうると感じられるからである。荒唐無稽ではあっても、暴かれた人間の仕組そのものには鋭い感受性が感じられるのである。
 デカルトの疑いにしても同じことだ。
 もしも悪魔が自分を騙しているとすればという仮定は、現実にはありえそうもない。にもかかわらずそれが受け入れられるのは、人間の仕組においては原理的にはありうることだからである。つまり、俯瞰する目に立って自分を見るというその仕組、その構造においては、原理的にありうることなのだ。何ものかに成り替わることができる、何ものかと入れ替わることができるというその仕組、その構造において、それはありうるのである。
 人は悪魔に成り替わることもできる。成り替わることができるからこそ、悪魔の仕業ではないかと疑うこともできるのだ。自分が悪魔ならばこうするに違いないと考えるからこそ、悪魔の仕業と断定できるのである。人は悪魔を通して自分の欲望を外化しているにすぎない。とりわけ人は人を操ることを好むが、これは自己の仕組をそのまま外化しようとしているに等しい。人は、自己を操るように、他人をも操りたいのである。
 (略)
 自分を騙しながら生きるということについては誰も異論がないだろう。
 反省とは自分を疑うことである。自分の思い違い、すなわち自己欺瞞を疑うことだ。人は自己欺瞞を疑うことによって脱皮してゆく。一般には自問自答するこの次元が孤独であるとされる。自問自答にともなう寂しさや哀しさ、自身への憐れみが孤独の実質とされるのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.484-487)

作品の冒頭で、アリシアは自らの体験を、お伽噺として話した方が信じてもらえるかもしれないと、敢てフィクションの構造を導入するのは「現実離れ」による、「原理的にそれがありうると感じられる」効果を狙ったものである。
そして、アリシアはシンポジウムで世界を説明する役割が物語から科学へと遷移することを訴えると、自らの目に映る妖精の口に呑み込まれる。アリシアは妖精「を通して自分の欲望を外化しているにすぎ」ず、自己欺瞞を自ら疑っているのである。アリシア――すなわちおよそ人――は「自分を騙しながら生きる」、すなわち孤独な存在である。

 孤独とは自己欺瞞のことである。
 おそらくそう述べたほうがいい。あるいは自己とはこの自己欺瞞のことであり、そういう自己というものの在り方がつまり孤独なのだといったほうがいい。あるいは、自己欺瞞ではなく自己認識というもう少し穏当な言葉を使うべきかもしれない。孤独とはこの自己認識にともなう感情の一揃いなのだ、と。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.487)

孤独が自己欺瞞であり自己であるなら、物語が失われることはない。本作は、物語についての物語であった。