可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 蔡云逸個展『The Last Evil in the world』

展覧会『蔡云逸「The Last Evil in the world」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2023年3月20日~25日。

油彩とテンペラによる大画面作品、サイアノタイプによるドローイング、木版画など19点で構成される蔡云逸の個展。

《A glimpse of the red dragon》の屋内プール、《Dream of mum and a big big moth》の虫籠(?やそれが置かれた空間)、《Mermaid and angel having a rest》の湾、《Dream of red dragon》や《Dream of the sea》の寝室など、閉鎖的な空間を舞台にしつつ、蝶やドラゴン、天使の羽ないし翼による飛翔のイメージにより脱出や逃避(への願望)が表わされている。
《Into the Night》は、裸の女性が大きく両腕を広げて飛翔するイメージが描かれる。山羊(羊?)の存在は、山羊(悪魔)に乗ってサバト(魔女の宴会)に向かう魔女のイメージを髣髴とさせる。薔薇の茨は(男性により)女性に課せられた桎梏であり、彼女が裸であるのは羽ばたきと相俟ってそれからの解放を訴えるようだ。蛇は性的なメタファーであるとともに、その毒のイメージを介して民間療法(例えば堕胎薬)の施療を表現するものかもしれない。魔女はキリスト教や男性による伝統的な女性支配を乗り越えるシンボルなのだ。
《Into the Night》を介することで、閉鎖空間からの飛翔・逃避を表わした作品が、女性の解放を訴えたもの(フェミニズム絵画)と解することも十分に可能である。

《The hug》は、エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)の木版画《KissⅣ》など「Kiss」を描いた一連の作品を彷彿とさせる木版画。《Into the Night》や《Dream of a doubled tea pot》などに見られる長い影や、《I saw her and a man holding a blue towl》における(鏡像中だが)正面向きに立つ男性の虚ろな表情、あるいは《Dream of red dragon》の画面の縁の配された鎖状のモティーフなどにも、ムンク作品の影響を見ることが出来る。
ムンクの作品は、《吸血鬼(愛と痛み)》が典型的だが、女性に対する恐怖が表現されている。ムンクの絵画に見られる女性に対する恐怖を、作家は女性の能力として援用していると捉えることは可能であろうか。

《A glimpse of the red dragon》は、屋内のプールの水面から半身を覗かせた裸体の女性を描いた作品。右手にはブロック塀のような壁が立つ。正面は前面ガラス張りで、その右端にぼんやりと姿を見せるのは、赤い羽を広げた巨大な蝶のようなもの。赤いドラゴン(red dragon)である。
《Dream of red dragon》には、闇に覆われた画面の上半分に白い靄のような空間が広がり、そこに置かれたベッドの中央に男性に覆い被さられた女性を、加えて、ベッドの左側の枕に近い位置に輿を降ろすに赤い翼の男性の後ろ姿と、ベッドの右手前側に腰掛ける女性とを性愛の行為と異時同図的に表わしている。右上から白い雷のような震える線が2本、闇に降ろされる梯子として描き込まれている。さらに左隅には、闇に立つ、先が鰭のようになった女性が身体を縦に長く伸ばし、ベッドのある空間を覗いている。画面の左端には縦に鎖のようなものが白い空間と闇とを縦断して垂らされている。
《I saw her and a man holding a blue towl》は、洗面台で身繕いをする男女を描く。正面右寄りの位置に洗面台と鏡があり、その前で髪を結わえている裸体の女性と、彼女の左側に佇む裸体の男性との後ろ姿が表わされている。鏡には、女性の顔とともに背後の赤いカーテンが、男性と彼が手にする青いタオル、そして男性の背後に赤い翼が覗いている。
《A glimpse of the red dragon》、《Dream of red dragon》、《I saw her and a man holding a blue towl》に描き込まれた赤い翼を持つ男性=赤いドラゴンは、女性から立ち去る男性、あるいはその予兆を表現するものである。
ところで、ドラゴン退治の物語「聖ゲオルギウスとドラゴン」をモティーフとした作品は数多絵画化されているが、とりわけ、13世紀ヴェローナの挿絵では、緑の体に赤褐色の翼を持つドラゴンに対し、緑の外衣に赤いマントを羽織る聖ゲオルギウスが表わされ、退治する者がドラゴンに擬態するかのように表わされている。これは「狩猟は動物の模倣である」という狩猟≒退治の本質を突いた表現と言える。

 猟の本質とは、人間と獲物のあいだの関係性にある。猟が示しているのは、大集団をなした人間社会の生活から離れ、ひとりで、あるいは、ごく少人数で動物と対峙することである。オルテガ・イ・ガセーに言わせれば、「狩猟は動物の模倣である」。さらに、彼は、「獲物と神秘的なそうした合一の中にすぐさま生じてくるのは、1つの感染であって、狩猟者は獲物と同じように振る舞いはじめる」という。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.87)

《A glimpse of the red dragon》や《Dream of red dragon》において男性=赤いドラゴンが女性の下を立ち去る場面が幻視されるのに対し、《I saw her and a man holding a blue towl》における女性は、髪と纏め、赤いカーテンを翼のように背後に配することで、男性=赤いドラゴンと同化しようとしているのではなかろうか。女性が男性が捕えるハンターとなる、「聖ゲオルギウスとドラゴン」の翻案と言えよう。