可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 五味謙二個展『built to last』

展覧会『五味謙二展「built to last」』を鑑賞しての備忘録
日本橋髙島屋本館6階美術画廊Xにて、2023年3月15日~4月3日。

「彩土器」シリーズと「shi-tou」シリーズのやきもので構成される、五味謙二の個展。

「彩土器」シリーズは、赤血球のような細胞、アメーバのような生物、あるいはコンドームのようなゴム製品などの形を想起させる曲面を持つ形のやきものを積み重ねた作品。抽象化された幾何学的な形態は自然には見られない人為の存在であり、宇宙や身体の表象である五輪塔を想起させる。だが垂れるか撓むかするしなやかな形態――人をダメにするクッションのような――は血液を始めとする体液の内包を思わせる。
粉を吹いた肌は灰白色とマットな黒、その境界に僅かに白味が差す。高度な技術を前提とすると思われる、歪な形の複数のやきものが食み出しつつもうまく噛み合う構造は、調和の象徴のようでもある。
表面からは見ることはできないが、紐作りによるやきもの個々には空洞がある。これを繭の表現と見ることが可能である。

 繭とは、1つの環境、1つの世界が、ただ幾何学が適用されるにとどまらず、幾何学と形態が一から再発明されるような実験室であることの、生きたデモンストレーション(実演)である。
 繭は自己意識の形態にしてパラダイムである。生きものが各自みずからと結んでいる関係は、それゆえもはや再認識に属するものではない。自己意識はもはや、生きものがそこに見出され、みずからの相貌を再認識し、自分自身と合致するような場ではない。それはわたしたちの各々が、みずからを決定的に変態させ、それまで生きてきた世界とは完全に異なる世界へと移動させるさまざまな力に服従する空間なのである。さまざまな考えや意見、感覚――それらが外から来るのか、あるいはわたしたち自身の身体から来るのかはさほど重要ではない――は、わたしたちを変態させる力である。すなわち、わたしたちの幼虫の身体から突如として現れる翅であり、わたしたちがもはや歩き回ることのできない世界、飛翔によってしか知覚することのできない世界の仲介者である。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.89)

 「繭」とは、「自己意識の形態にしてパラダイムであ」り、「それまで生きてきた世界とは完全に異なる世界へと移動させるさまざまな力に服従する空間」の象徴である。《彩土器》を構成する1つのやきものを「繭」と捉えることの意義は、自らを「繭」として変態させ、生命――そして世界――に対する見方の転換を可能にすることだ。

 繭とは、メタモルフォーゼがなによりもまず、わたしたちが自分自身と結ぶ関係であるという証拠である。そしてそれは個体の水準に限らない。わたしたちの個別的形態、人間存在、チョウやサル、バクテリアやウチワサボテンの実、シャコやコナラという存在は、1つの繭である。これがダーウィン進化論の最も根本的な意味なのだ。生のあらゆる形態は1つの繭である。それはつまり、その結果が未来においてのみ見られるようなメタモルフォーゼの連続した懐胎なのである。
 それは1つの繭である。それぞれの種が新たな形態を作り出すにあたっては他のいかなる種の助けも要請しないからだ。種はそれ自身に閉じこもり、みずからの歴史を廃墟と化し、そしてみずからの身体、みずからの遺伝子の破壊と再構築を、みずからが所有するものでコラージュやブリコラージュを作りながらおこなうのである。
 それは1つの繭である。なぜなら、繭が生み出すことになる形態はけっして回心でも革命でもないからだ。それに先立つ形態はまったく消去されず廃棄されない。
 それぞれの種がみずからの形態に満足しているようには見えない。それぞれの種は自身の同一性から抜け出し、それを脱ぎ捨て、そこから別の同一性を構築しなければならない。しかしながら、それぞれの種がそれに先立つさまざまな形態を捨て去ることはけっしてできないように思われる。
 地球上でさまざまな種が織りなす生は、1つの絶え間ないメタモルフォーゼである。メタモルフォーゼは種どうしを分離し分断する境界線である。これが意味するのは、わたしたちが生のさまざまな形態と結ぶ関係がつねにメタモルフォーゼ的であるということだ。つまり、わたしたちは他のものに生成変化することができるだろうし、そうすることができたはずだ。メタモルフォーゼとは、すべての生きものを結びつけると同時に分断する類縁関係なのである。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.89-90)

すべての生きものは1つであり区切られる必要がある。区切られるからこそ生命は1つであることが明らかになる。て《彩土器》を構成する個々のやきものが積み重ねられているのは、「メタモルフォーゼの連続した懐胎」、すなわち「地球上でさまざまな種が織りなす生」を「1つの絶え間ないメタモルフォーゼである」ことの象徴ではなかろうか。

 こうした種をまたいだメタモルフォーゼを生きるために、わたしたちは性交や遺伝的変異を必要としない。わたしたちは日々このメタモルフォーゼを体験しているのである。1日のあいだに何度も。食事を取るたび、わたしたちは動物になる。このことが意味しているのは、わたしたちにとって生きることは、他の生きものの身体を摂取しなければならないという行為と重なり合っているということだ。わたしたちのために生きることは、他なるものの生、他なるものの身体を、わたしたちの身体や生へと消化吸収する務めと重なり合っている。
 生きものを――植物であれ動物であれ――摂取するたび、わたしたちはメタモルフォーゼの場であると同時に主体であり対象でもある。食事を取るたび、わたしたちはみずからお、そこでは生の別の形態(若鶏やイカ、ブタ、リンゴ、アスパラガス、キノコ)が人間の形態になるような繭へと変態させている。食事を取るたび、わたしたちはみずからを、そこでは人間という存在が、ウシや桃、タラ、ケッパー、アーモンドの肉と生になるような繭へと変態させている。
 さまざまな繭であることを体験するためにわたしたちは食事をすら必要としない。生きることを始めれば十分である。地上に存在しているあらゆるもの、目にうつるあらゆるものが、ガイアという身体のメタモルフォーゼ、その肉をテーマとした変奏、その息吹の錬金術的な変化であるということは、あまりに頻繁に忘れられている。わたしたちは地球の石のメタモルフォーゼ、その生きた変奏である。あらゆるものが地球に由来する――それは価値を欠いた、ニヒリズムキリスト教における意味ではない。なぜなら地球とはその内部で全形態が生み出される巨大な繭だからだ。そしてその逆に、わたしたちが生と呼んでいるものは、どんな形態のもとであれ、ガイアが新たな在り方を発明する繭でしかない。
 地球こそが(そして地球は太陽から逃れた物質にすぎないのだから、それゆえ宇宙こそが)、それ自身の物質から新たな在り方をわたしたちにおいて発明するのである。
 この観点からすれば、これまでわたしたちはそれぞれ、繭である限りで、あらゆるものを貫いてきた。わたしたちはそれぞれ、これからあらゆるものを通過するだろう。わたしたちは同じ1つの世界にして同じ1つの実体である。わたしたちの自己意識や記憶にあいた穴は、こうしたものでしかない。すなわち、わたしたちの精神にける他の「自我」に出現である。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.90-92)

《彩土器》の個々のやきものの持つ空洞は、生きもののを通過し、貫いてきたことの証拠である。「わたしたちは同じ1つの世界にして同じ1つの実体である」ことが《彩土器》に表現されている。