可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 立原真理子個展『すきまとおく/広縁』

展覧会『立原真理子展「すきまとおく/広縁」』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2023年4月3日~8日。

蚊帳に刺繍で表わした風景画や、そのモティーフとなった室内の設えを再現したインスタレーション、それらのエスキースである水彩画で構成される、立原真理子の個展。

《すきまとおく》(384mm×458mm×22mm)は、白い木枠に白い蚊帳を2枚重ね、下(奥)側の1枚にモスグリーン、黄緑、青などで遠くの稜線と、焦茶で椅子とテーブルとを、上(手前)側の1枚に茶色の刺繍糸で障子を表わした作品。障子が室内と、広縁・外とを隔てる境界となっている。障子は中桟が2つあり、上2段は稜線を透過させて見せる一方、下の段は景色を隠すようだ。障子が刺繍の裏側で表現されている(らしい)こと、重ねられた蚊帳によって椅子とテーブル、そして稜線がぼやけていること、さらに蚊帳を張っている木枠の穴(展示室の壁)が透けていることなどによって、内と表(外)との関係、そして奥=穴への吸引力を生んでいる。とりわけ、障子の框と組とが作る桝目、障子と障子との間、木枠の作る開口部は、蚊帳の網目によって無限の反復を想起させる。そして、無限の反復と相俟って、ぼんやりとした境界は、閉じつつも外界に開かれている生命のメタファーとも解し得る。

 わたしたちの生は他者の生のメタモルフォーゼという行為によって始まった。娘もしくは息子である(つまり生まれた)ということはとりわけ次のことを意味している。つまり、他者の身体――両親の身体と世界の身体――のメタモルフォーゼの代行者となることを強いられているということだ。この行為は分娩と誕生とで終了するのではない。メタモルフォーゼにはけっして終わりがない。自我はつねに〔動力を別のものに振り分ける〕ディファレンシャル(差動装置)なのだ。
 わたしたちが生き続けられるのはこの同じ身振りを延長することによってでしかない。メタモルフォーゼはけっして停止することがない。メタモルフォーゼはまさしく誕生によって残された傷跡であり、運命である。メタモルフォーゼは受動性の形態ではなく、自分自身と世界とを前にした生きものの、無限の能動的空間なのである。
 メタモルフォーゼは他者の身体――わたしたちが受け入れて、徐々に手なずけていく身体――との接着であり一致である。メタモルフォーゼを横断することは、他者の身体におて「わたし」と言うことができることを意味している。あらゆるメタモルフォーゼ的な存在――あらゆる生まれた存在――はこの他性によって構成され、取り憑かれており、けっして消し去ることができない。わたしたちが自分の出発点(遺伝とよばれるもの)からきわめて隔たった何かを打ち立てたとしても、他者はわたしたちのなかに残っている。遺伝概念はこの側面を完璧に表現している。わたしたちにおいて最も秘められており最も深奥にあるもの、つまりわたしたちの遺伝的同一性は、他者に由来するものであり、他者によって彫琢されたものである。わたしたちの形態がエートル(ある)という動詞を活用させることはけっしてないだろう。わたしたちの形態は所有しか定義していないからだ。それはわたしたちが持っている何か、ハビトゥス(習慣による蓄積)なのだ。わたしたちはそれを統合することがけっしてできないだろう。わたしたちのなかにはつねに他性のしるしが残り続けるだろう。しかしこの他性はわたしたちに与えられている。つまりいまや変容を被りうる。遺伝とは、他者に属していたものを我がものとし、変容する可能性を表わしている。
 この観点からすればメタモルフォーゼとは、完全に自己自身でありうることはけっしてなく、他者と一つになって完全に溶け合ってしまうこともありえないまま、他者を自己のうちに擁するよう強いる条件なのである。生まれたということは次のことを意味している。純粋であることなく、自己であることがないということ、そして、他者から来た何かを、つまりわたしたちがいつも自分自身にとって異質なものとなるように駆り立てる異質な何かを自己の内に有しているということなのだ。わたしたちは自分自身のうちに、自分の両親、祖父母、その両親、人間以前の霊長類、魚、バクテリア、そして炭素、水素、酸素、窒素等々といった極小の原子に至るまでを運んでいる。わたしたちが均質で透明で、完全に識別可能となることはけっしてないだろう。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.43-44)

微妙に形の異なる2枚の障子は両親を、椅子は他者の存在を、遠くの山並は「人間以前の霊長類、魚、バクテリア、そして炭素、水素、酸素、窒素等々といった極小の原子に至るまで」の類比と捉えることはできないだろうか。そのとき、《すきまとおく》は、「わたし」の肖像となる。

《すきまとおく/広縁》は、椅子1脚とその前に1台のテーブル、さらに椅子の左側に障子を1枚、その障子と椅子・机を挟んで平行に、だが少し離れた位置にもう1枚の障子を配したインスタレーション。障子には紙など貼られておらず、椅子に近い方の障子にはほぼ全面に白い刺繍糸が巻き付けてあり、もう1枚の障子には、何カ所か刺繍糸が巻き付けてある。2枚の障子は両親であり、椅子は他者である。障子によって仕切られつつも周囲の空間に対して開かれているインスタレーションは、やはり「わたし」の肖像である。