可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 張静雯個展『空白と距離』

展覧会『張静雯個展「空白と距離」』を鑑賞しての備忘録
KYOBASHI ART ROOMにて、2023年4月12日~23日。

「KYOBASHI ART WALL―ここから未来をはじめよう」の第2回優秀作品に入選した作家、チャン・ジンウェン(張静雯/Ching Wen CHANG)の展覧会。集合住宅の内部、部屋や廊下・階段などを、主に扉のある風景として切り取った絵画21点で構成される。

冒頭は縦長の画面(420mm×297mm)で統一された「空き器」シリーズ3点(2020)と「Room」シリーズ11点(2021-2023)の計14点が一列に並ぶ。窓越しに浮かび上がる卓上の植木鉢や布巾掛けの布巾(?)「影」シリーズ2点(910mm×727mm)(2023)を挟み、L字の仮設の壁面に集合住宅の無数の部屋を共用通路側から捉えた出展中最大画面の《真空》(1820mm×3600mm)(2022)が設置されている。その裏側には会場の目の前に建設中のTODA BUILDINGの仮囲に掲出されている、喫煙所を描いた《冬夜》(410mm×410mm)(2022)が掛る。2点の「影」の向かいには対照的なタイトルの《光》(729mm×510mm)(2023)が、同一サイズ14点の絵画の向かいには、「Room」シリーズ最新作の《Room XV》(729mm×510mm)とブラインドとそこからわずかに覗く景観を描いた《内と外 No.1》(1167mm×910mm)とが展示されている。

最初に並ぶ同じサイズ(420mm×297mm)の14点では、集合住宅の内部が縦長の画面に表わされる。ドアが放たれた先にあるもう1つの部屋やその窓、あるいは共用部分の通路にある扉と階段などが描かれる。ヴィルヘルム・ハンマースホイ(Vilhelm Hammershøi)が連想されるが、温かみが感じられる木造の個人住宅の室内に比べると、鉄筋コンクリートの集合住宅は無機質さが際立ち、それはモノクロームの画面によって助長される。だが14点が並列されることで、青味ががかる墨の色味には様々な違いがあることが浮上し、油絵にはない滲みないし暈かしの効果が、主に直線や方形の幾何学的なモティーフで構成されるハードボイルドな世界に、しっとりとした質感を与えているのが分かる。そしてその「湿度」は、画面には決して現れない人――外出して不在なのか、既にこの世を去っているのかを問わず――の余韻を伝えるのである。
また、室内(あるいはアパルトマンの内部)という閉鎖的な環境を前提に、窓に外の建物が映り込む《空き器―光》や、共用階段が覗く《Room XV》のように、ドアが開かれ外部へと通じる可能性が示唆されている。しかも通路の先であったり、扉や壁、あるいはカーテンによって視界が遮られたりしながらである。そこには鑑賞者を奥へと誘う作家の意図が感じられる。

奥という表現は、万葉、伊勢物語徒然草、そして江戸時代の歌舞伎に至るまで、日本人にとって特有な場所性の指示という形で我々の日常空間体験の中に定着している。ここで興味あることは「奥」なる言葉が常に空間において奥行という概念を含みつつ使われていることである。一体奥行とは何を意味しているのであろうか。「奥行」なる概念は与えられた空間の中での相対的距離であり距離感である。他の民族にくらべて昔からかなり高密度な社会を形成していた日本人にとって空間はより有限で、こまやかなものとして印象づけられてきたに違いない。その結果、限られた空間の中に遠近の差を相対的に設定するというデリケートな感覚が早くから芽生えていたのではなかったかと思われる。それでなければ「奥行」なる概念は説明し難いものであろう。たとえ百メートルの距離でも、あるいは十メートルの距離の中にも、相対的に「奥」を認識し、奥に至る道程を設定することによって、初めて重層化された空間のひだと、何故ひだをつくろうとするのかという日本人の空間感、大げさにいうならば、宇宙観を納得することができる。
と同時に「奥」が「抽象的に奥深いこと。事が深淵で測りがたい」意味をもつことも理解されよう。ここで「奥」は空間のみならず、心の奥というかたちで心理的なものを表わすことにも使用されていることに注目しなければならない。
(略)
奥性は最後に到達した極点として、そのものにクライマックスはない場合が多い。そこへたどりつくプロセスにドラマと儀式性を求める。つまり高さでなく水平的な深さの演出だからである。多くの寺社に至る道が屈折し、僅かな高低差とか、樹木の存在が、見え隠れの論理に従って利用される。それは時間という次数を含めた空間体験の構築である。神社の鳥居もこうした到達の儀式のための要素の他ならない。(槇文彦「奥の思想」槇文彦『見え隠れする都市』鹿島出版会〔SD選書〕/1980/p.205-206, 220-221)

作家の作品に扉が頻繁に登場するのは、それが恰も鳥居の効果を発揮し、「次数を含めた空間体験」へと誘うためであろう。その体験をより確実にすべく、壁やカーテンは「重層化された空間のひだ」として配されているのである。

日本人にとって土地は生きているものであり、その基盤に土俗信仰に深く根差した土地への畏敬の姿勢がある。「奥」は構築されたもの(中心のように)ではな本来土地そのものに与えられた原点なのではなかろうか。(略)土地そのものの中に実存の原点を求め、奥はその象徴なのではなかったか。かくして奥は都市(あるいは集落)の中に無数に発生する。時に公共的な置くとして、またある時は、より私的な領域の中に、無数の奥を包摂する領域群として都市が理解される。都市は絶対的な中心をかかげ、蝟集するところでなく、各々の奥をまもる社会集団の領域として発展してきた。(槇文彦「奥の思想」槇文彦『見え隠れする都市』鹿島出版会〔SD選書〕/1980/p.228-229)

展覧会の会場は、(少なくとも周辺の巨大なビル群に比して)小さなビルの4階に設けられている。階段を1段ずつ上ると、開かれたドアの先に、展示室が奥へと長く延びる。奥まで一望できないようL字の仮設の壁面が設置されている。そこに展示された《真空》には、集合住宅の無数の部屋を共用通路側から捉え、ドアや小窓などが画面一杯にびっしりと描き込まれている。平板な画面にある無数の扉。それは「無数の奥を包摂する領域群として都市」のアナロジーである。鑑賞者は都市から建物(ギャラリー)に入り込み、さらに画面の中へと導かれる。

平板な画面にある無数の扉、そのそれぞれの扉の奥へと鑑賞者の想像を誘う。だが「奥性は最後に到達した極点として、そのものにクライマックスはない」。《真空》の掛る壁の向こう側には小さな空間が設けられ、そこに《冬夜》が展示されている。そこに描かれているのは、無人の箱、灰皿スタンドが置かれた喫煙スペースである。行き着いた時には、全ては煙のように消えてしまっていた。この「空白」へ導く「距離」を作るために襞としての作品が存在する。作家の狙いは展覧会タイトル「空白と距離」に明確に示されていた。過程こそが作品なのだ。