可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 玉山拓郎個展『Something Black』

展覧会『玉山拓郎個展「Something Black」』を鑑賞しての備忘録
ANOMALYにて、2023年4月8日~28日。

山拓郎のインスタレーション《Something Black》を展観。

 ドイツ語の「不気味な」unheimlichは明らかに、heimlich(一、秘密の、私の、内密の,知られない、二、(方言)過程の、馴染の、親しみがある・訳者) heimisch(一、土着の、故郷の、自由な、二、気がおけない、居心地のよい・訳者) vertraut(一、親しい、親密な、二、熟知せる、精通せる・訳者)の反対物であり、したがって、何事かが恐ろしいと感ぜられるのはまさにそれがよく知られ馴染まれていないからである、とただちに結論を下すことができる。(フロイト高橋義孝〕「不気味なもの」『フロイト著作集3 文化・芸術論』人文書院/1969/p.328)

巨大な積木のような黒い物体が赤い光に照らされた展示室内に設置されている。ランプ、テーブル、棚、ベッドなど、家具を模したと思しき形もあれば、何を表わすのか判然としない形もある。四角く欠け、あるいは門のように穴の開いた形状は、木組み――組接ぎや枘接ぎ――を思わせ、その組み立てへの連想が、どこか積木のような玩具の印象を生んでいる。但し、人のスケールよりも大きな物体は、巨大な展示空間を迷路のようにして、鑑賞者の前に立ちはだかる。
柱状の物体の中に、モニターが埋め込まれたものが3つある。展示されている黒い物体のアニメーションの他に、空や海を映し出したものがある。とりわけ、オレンジ色の空と紺色の海とを映し出した映像は、鑑賞者が見上げても姿を変えない水平線によって、黒い物体が生み出す迷路が際限なく続くような感覚を生じさせる。フランツ・カフカ(Franz Kafka)の『城(Das Schloss)』において、測量士Kが雇い主である伯爵の城を目指して歩く時の心持ちを追体験できる。

 こうして、Kは、さらに歩きつづけた。しかし、道は長かった。彼の歩いている道は、村の本道なのだが、城山には通じていなかった。ただ近づいていくだけで、近づいたかとおもうと、まるでわざとのように、まがってしまうのだ。そして、城から遠ざかるわけではなかったが、それ以上近づきもしないのだ。(カフカ〔前田敬作〕『城』新潮社〔新潮文庫〕/1971/p.23)

あるいは、鑑賞者の行く手を遮る黒い物体を柵と見立てれば、やはり『城』における、オルガによる伯爵の使者バルナバスに関する述懐が思い出される。

(略)けれども、特に気持が沈んでいるようなときには――バルナバスもわたしも、ごくまれというのではなく、ときどき気持がめいることがありますわ――そういうときにわいてくる疑問は、いったい、バルナバスがしていることはお城に対するご奉公だろうか、ということです。確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、別に禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者でしかないとしたら、なんの役にたつでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむくにはバルバナスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申し上げました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑惑は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。(カフカ〔前田敬作〕『城』新潮社〔新潮文庫〕/1971/p.291)

赤い光はCOVID-19であり、その光を浴びた黒いオブジェ群は、疫禍に見舞われた世界であろうか。感染に対する恐怖から人との接触を避け、外出を自粛して自室に引き籠もる。社会への接続はそれまで以上にモニターを介したものとなり、行動範囲は自室に限られる。感染症の蔓延は、都市=城市(Chéngshì)の姿を変じたろうか。少なくとも「気持のめいったときには、ついそう思いこんでしま」うものだ。「柵のむこう」に「すすむことは、別に禁じられているわけでは」ないが、「たえず監視を受けてい」ると「すくなくとも、そう信じられてい」る。