可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『不思議の国の数学者』

映画『不思議の国の数学者』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の韓国映画
117分。
監督は、パク・ドンフン(박동훈)。
脚本は、イ・ヨンジュ(이용재)。
撮影は、パク・ホンニョル(박홍열)。
照明は、カン・デヒ(강대희)。
音響は、イ・スンヨプ(이승엽)。
視覚効果は、ユン・ジョンヨル(윤충열)。
美術は、キム・ヨンヒ(김영희)。
衣装は、キム・テヨン(김태연)。
編集は、キム・サンミン(김선민)。
音楽は、イ・ジス(이지수)。
原題は、"이상한 나라의 수학자"。

 

暗い部屋。ラジカセからバッハの「無伴奏チェロ組曲」第1番プレリュードが流れる。テーブルライトの灯りで机に向かうイ・ハクソン(최민식)。周囲には数式を記した紙が束ねられ、あるいは掛けられている。鉛筆で数式を書き付けていたハクソンが、Q.E.D.と記す。
未明。ドンフン高校。校舎内の壁には賞状や記念バッジが多数飾られている。寄宿舎で起床を告げるベルが鳴り響き、照明が一斉に点く。カフェテリアでは制服姿の生徒たちが朝食を摂る。ハン・ジウ(김동휘)が1人憂鬱そうに坐っている。
韓国の上位1%が集まる場所。僕を除いてだけど。入学して213日が経って、未だに場違いな気がしてる。違うな、むしろ悪化してるんだ。
廊下を歩いていたジウは別の生徒にぶつかられて、名札を落としてしまう。
ハン・ジウ、お前は一体何してるんだ?
数学の授業。黒板に答えを書き終えたキム・グンホ先生(박병은)が生徒に質問を促す。誰からも質問はない。優秀な生徒に教えるのは楽だけど、教師になった理由を考えてしまうなあ。塾で習ってしまってるとしても、質問するフリくらいはしてもいいんじゃないか? そうすれば教えるフリができるからね。それで先生凄いってことになるよな。普通、授業ってそういうものだろう? 3年次の授業内容を終えてしまった。まだ1年生なのに。楽勝過ぎるよな。そんなことないか。
数学の成績が240人中238番目のジウが担任のキム・グンホ先生に呼び出された。数学が特に問題だな。中学じゃトップだったろう? ええ。でもな、数学がこれほどひどいと望みが無いな。率直に言わせて欲しい。うちの学校なら中間層でも名門私立は余裕だ。だけど主要科目で最低評価だとどうにもならない。普通の高校なら上位に入れるよな? 教師としてこんなことは言いたくないんだが、転校について真剣に考えてくれないか? 実家に戻ってお母さんと話し合って欲しい。
寮の部屋。ジウが机に向かっていると、同室の生徒を友人2人が訪れ、金を出し合うと、ジウに声を掛ける。
ジウは寮の通路の窓から買い出しに出て戻ったところを脱北者で「人民軍」と呼ばれる警備員に見つかってしまう。
教室。キム・グンホ先生が黒板の前にジウを立たせ、教卓にチャミスルの瓶とプラスティックの容器を並べる。豚肉が焼酎か。相性は抜群だな。で、誰なんだ? え? 先生は4本並んだ瓶を順に指示棒で叩く。3人の共犯者だよ。いません。箸もスプーンも4人分、それでも主張を変えない? ええ。楯突くのか? いいえ。そうか。君たちくらいの頃は義理堅さが大事だよ。先生も学校に通ってた頃はそうだった。ジウ、目の前の生徒たちを見てごらん。共犯の連中は自分のことしか考えてない。そんな臆病者のために1人で罪を被るのか? 君はそんなに愚かなのか? 白状しなければ、1ヶ月の退寮処分になる。さあ言ってごらん。僕は…1人で飲み食いするつもりでした。3人の生徒が胸をなで下ろす。パク・ボラム(조윤서)は呆れる。

 

韓国トップ1%の生徒が集まる全寮制のドンフン高校。父親を事故で10年前に失ったハン・ジウ(김동휘)は、母子家庭と低所得を理由とした特例で入学したものの、半年経っても学校に馴染めずにいた。担任の数学教師キム・グンホ先生(박병은)からは進学において最重要である数学が極端に悪いことから肩を叩かれる。寮の同室の生徒から買い出しを頼まれたジウは運悪く、脱北者で「人民軍」と綽名される警備員(최민식)に見つかってしまう。担任から共犯の名を挙げるよう求められたジウは自分一人がやったと罪を被り、1ヶ月の退寮処分になる。裕福ながら母親(정김희)の離婚により特例入学を果たしたパク・ボラム(조윤서)は男気あるジウに興味を抱く。ジウは帰宅したが、息子がエリート校に通うことを誇りにする母親(강말금)に退寮処分について、まして転校についてなどとても相談することなどできなかった。真夜中に学校に舞い戻ったジウは、古い理科棟のポーチで雨を避け潜んでいたところを「人民軍」に見つかる。「人民軍」は朝までジウを守衛部屋に匿った。数学の授業で宿題の答え合わせをする際、ジウは自分のプリントに全て正解が記されているのに気付く。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

全寮制のエリート高校に、母子家庭で低所得のため特例で入学を認められたハン・ジウが、友人を庇って1ヶ月の退寮処分となったことをきっかけに数学の得意な警備員から理科棟地下の倉庫で補講を受けることになる。補講の存在を口外しない、数学以外の質問をしない、試験や成績は関知しないというルールの下、いちご牛乳を授業料として行われる補講で、警備員は答えを出すことよりも問いそのものを理解することが大切だと諭す。例えば、角Aが90度の直角三角形があり、辺BCの長さは10、辺BCから頂点Aまでの「高さ」が10のとき、直角三角形ABCの面積を求めよ。答えを30と即答するジウ。だが警備員はABCを通る円周を描き、三角形が円に内接することを示す。すると、角Aは円周角で、BC(10)は円の直径だと分かる。その場合「高さ」は半径の5であるはずで、6とする問題の前提と矛盾する。マタイによる福音書(ペテロが「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」とイエスが予言したエピソード)まで持ち出して、警備員は問題を検討せず鵜呑みにして答えを出したジウを遣り込める。また、警備員は、オイラーの等式を取り上げて数学(数式)の美しさを讃える。数学に苦手を持っていたジウは次第に警備員に感化されていく。
冒頭から先生がΣを微分する問題を解説していたりするが、特段、数学が分からなくても鑑賞に何の差し支えも無い。警備員みたいに数式が発光しているように見えなくても、その演出で警備員が数学に魅了されていることが分かれば問題無いのだ。実際中盤以降、数学的モティーフは後景に退いてしまった。
この問題は難しい、また明日取り組もうと思う「数学的勇気」が数学に求められる力だと警備員は言う。それは数学に限らず一般化できる力であり、その力を訴える作品である。
邦題は原題"이상한 나라의 수학자"の直訳と言ってよく、原題は『不思議の国のアリスAlice's Adventures in Wonderland』の韓国語題"이상한 나라의 앨리스"を捩ったもの。アリスが穴に落ちて奇妙な冒険を行ったように、ジウが理科棟の地下室(=数学の世界)へ迷い込むということだろう。ルイス・キャロル(Lewis Carroll)は数学者であり、またハクソンが北朝鮮から韓国へと迷い込んだことも重ねられていよう。